藍染は、古くから世界中で行われてきました。
藍の色素を持つ植物も多種多様で、それぞれの地域にあった植物を使用し、さまざまな方法で藍染が行われてきたのです。
古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。
インドでの歴史は古く、古代ローマ時代にはインドで商品化されたインド藍がエジプトのアレクサンドリアを経由してローマへ輸入されました。
アラビア商人によって、エジプトをはじめ地中海方面へと運ばれていましたが、ポルトガルのバスコダガマが南アフリカを周るインド洋航路を発見したことによって、インドにおけるインディゴの生産はいっそう盛んになったのです。
目次
日本における藍染の歴史
日本においては、藍の色素を持つ植物は奈良時代以前から栽培されていたとされ、「正倉院文書」に「藍園」や「藍陸田」と栽培の記載があります。
蓼藍の原産地は、インドシナ地方南部やベトナム北部、中国の江南あたりとされますが、具体的にどこなのかはっきりとしておらず、稲作や養蚕の技術とともに大陸から日本に渡来したと考えられます。
平安時代から日本の中世における藍染・藍栽培
奈良の正倉院には藍染された紐「縹縷」が現存しており、この紐は天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養の際に、開眼の筆に結び、全国からの参加者が手に取って功徳にあずかったとされる絹糸を束ねて撚ったものです。
藍の名前が記載されている古い文献の中に、平安時代にまとめられた三代格式の一つである「延喜式」があります。
延喜式のなかには、染められた織物の色彩名と、染色に用いられた染料植物が詳しく書き残されています。
延喜式には、一カ所だけ「乾藍」(乾燥した葉藍)の記録がありますが、そのほかは、「藍何囲」、「生藍何囲」という記述で、藍の生葉が染料として扱われていたことがわかります。
「乾藍」は、貲布(麻やシナノキの皮の繊維で織った布)を染めるもので、ここには「灰」の記載が付属しています。
この「乾藍」と「灰」の組み合わせが、後世の藍建て(発酵建て)のはじまりを示すものとも考えられます。
『阿州藍奥村家文書 第五巻』には、飾磨(現在の兵庫県あたり)における藍栽培が、源平時代(11世紀末から源頼朝が武家政権を確立する12世紀末までの約100年間)以前より盛んだったとの記載があります。
飾磨藍は遠く源平時代以前より盛んに戀愛の和歌に頌作賞玩せられぬ即ち金葉和歌集(天治年間の勅撰)に「いとせめて戀しき時ははりまなるしかまに染むるかちよりそくる」とあり次で勅撰詞花和歌集(天養の頃に成る)にも、「播磨なるしかまに染むるあなかちに人を戀しと思ふころかな」といへり或は夫木和歌集に「はりまなるしかまの里にほすあゐのいつかおもひの色に出つへき」「染めてほすしかまの搗を見るよりもぬれて色濃き我が思ひかな」抔あるにて証すべし尚ほ此の外にも皆あゐとあいとは仮名字を異にするも國音(その国やその地方における固有の発音のこと)の通ずるを以て藍を愛とし戀愛又は愛敬の意に用い謳ひし歌多く世に尊重せられしなり『阿州藍奥村家文書 第五巻』
承元元年(1207年)には、鎌倉幕府が諸国の地頭に対して、荘園から藍作税を徴収することを禁止する壬生文書があります。
嘉禎4年(1238年)、坂上左兵衛門明胤(さかのうえあきたね)が河内国藍作手奉行に任命されたと、鎌倉時代に成立した日本の歴史書である『吾妻鏡』に記載されています。
室町後期の教訓書である『慈元抄』には、歌人の西行法師(1118年〜1190年)が「物染る藍と云草」を1本抜き取ったため作主から叱られたとあります。
また、正和4年(1315年)の日吉神社造営の際に、「紺搔(藍染職人)」のほか、茜染、紅染等が分化したと、『管見記』に記載されています。
日本の中世(平安時代後期(11世紀後半)から、戦国時代(16世紀後半)までの500年ほど)においては、「紺屋」「紺搔」「紺座」「紺灰座」など、藍染に関する文献における記載も多いことから、当時染料としてに藍がすでに注目されていたと推測されます。
京都では、東寺が支配する寝藍座という同業組合があり、葉藍を加工して蒅をつくったのは、寝藍座の人々だと考えられ、建武元年(1334年)の『東寺年貢算用帖』に藍に関する記載があります。
室町時代の永亭3年(1431年)には、京都九条の寝藍座が藍葉を無断で東寺境内で乾燥させるので、これを断ったという記録があるようです。
藍の葉っぱを栽培し、乾燥、発酵させてできた原料を蒅といいますが、京都における藍栽培の歴史としては、すでに鎌倉初期から、葉藍を寝せ込み、人々が「蒅」を加工していたという史実があるのです。
江戸時代における藍染・藍栽培
松江重頼(1602年〜1680年)によって、寛永15年(1638年)に出版された俳句に関する書物である『毛吹草』には、藍の産地として「山城(現在の京都府の南部)、尾張(現在の愛知県西部)、美濃(現在の岐阜県南部)」が挙げられています。
上記の地域は、阿波藍よりも先に藍の産地として有名だったのです。
藍作が行われ、藍染が日本中で行われるようになった大きな理由が、木綿栽培の普及です。
木綿栽培の飛躍的な広まりは、関連するさまざまな分野が社会の経済構造を大きく変えるほどの影響力を持ち、もっとも影響を受けたものの一つとして、藍作と藍染が挙げられるのです。
木綿が普及していく以前、庶民の衣服の原料として地位を確立していたのは、苧麻や麻でした。
木綿は、苧麻に比べると栽培の手間のかかりにくく、経済性の高さ、繊維の柔らかさや保温性などの多くのメリットがあることによって、16世紀には国内での栽培が広まり、17世紀初頭ごろには、苧麻にとって変わって発展していきました。
関連記事:日本の綿花栽培・木綿生産が普及した歴史。苧麻が、木綿に取って代わられた理由
藍の主産地として阿波が登場
どの産業においても、さまざまな要素によって産地の集中が起こるというのはよくあることです。
藍作の場合は、阿波(現在の徳島県)が主産地として登場します。
関連記事:阿波25万石、藍50万石。徳島における藍栽培が盛んだった理由
藩主であった蜂須賀家が、現在の兵庫県播磨から藍作の技術者を招いて藍作技術指導にあたらせました。
1625年に藍方役所と呼ばれる役場が藩内に設けられ、藍の栽培と製造の監督が行なわれていたので、この頃から重要な産品としての藍作が認識されていたのは間違いありません。
その後、藍作の保護と奨励政策をとり、阿波藍はますます盛んになっていきます。
藍商人によって、全国の染屋に阿波産の蒅(すくも)が行き渡る
江戸時代は貨幣経済が浸透してきたことから、商品作物や各藩の特産物として換金作物の栽培が推奨され、特に重要な作物は「四木三草」と呼ばれました。
三草の「藍」とは、藍染の原料を表しますが、「藍」が市場に流通する際は、藍の葉っぱを栽培し、乾燥、発酵させてできた蒅の状態と、蒅を臼でつき、固めて「藍玉」や「玉」と呼ばれる状態にする2種類がありました。
阿波で作られた蒅や藍玉が、全国各地の染屋に渡るためには販売ルートが必要です。
そこで、藍商人と呼ばれる存在が活躍します。
藍の原料を作る藍師から買い集められた蒅や藍玉は、藍商人の元に集められ、大阪や江戸の藍問屋に送り出される流通経路が確立しました。
蒅を藍玉にすると輸送効率が上がるため、遠くに輸送する場合は藍玉にして、近くで消費する分は、蒅の状態のままにするなどの区別があったと考えられます。
江戸時代、現在の徳島における阿波藍は、蒅の状態ではなくほとんどが藍玉の状態で取引がされ、蒅は幕末期に大阪で若干売買されていた程度で、藩の方針として蒅そのままの状態の市販を原則禁止していたのです。
理由として、建前上、他国(国内の別の藩)の藍と混合されてしまうと信頼を失う恐れがあるからとのことだったようですが、実際には蒅の状態で輸送するより藍玉の方が利益が多く、藍に砂を混ぜて藍玉にしていたことなどが主な理由です。
阿波藩は藍商人に販売独占の特権を与え、その代わりに税を課すことによって財政を潤そうとしたりするなどの流通統制をし、藍商人は富を蓄えるようになります。
ちなみに現在の阿波銀行は、阿波藍商人たちが資本を持ちよって民営の銀行として設立したのが始まりです。
明治時代に合成藍が入り、藍作・藍染が急速に衰退
阿波藍は、クオリティが高い蒅としてブランド化していたので、その他の場所で作られた蒅は「地藍」と呼ばれランクの低いものとされました。
商売であれば、良いものを原料に使っているのであればアピールしたくなります。
阿波藍を使っている染め屋はそれを公表することで、染め屋としての差別化をはかっていました。
明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先の暖簾などを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。
東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けました。
江戸時代の浮世絵師である歌川広重(1797年〜1858年)によって、天保14年(1843年)~弘化4年(1847年)に描かれた「東都大伝馬街繁栄之図」には、現在の東京都中央区日本橋大伝馬町にあった木綿問屋街の様子が描かれています。
江戸時代末期に描かれたこの作品には、屋号が染め抜かれた藍染の暖簾が、店の軒下にところ狭しと描かれていることがわかります。
ただ、木綿とともに繁栄してきた藍作と藍染に大きな転機が起こります。
ドイツの化学者バイヤーが、天然藍とまったく同じ科学構造を持つ合成藍(インディゴ)を1880年に発明します。
その後、インディゴ合成の工業化をめぐって、世界中でし烈な競争が繰り広げられるなか、1897年に工業レベルでの製造に成功したのは、ドイツの染料メーカーであるBASF社でした。
BASF社はこれをきっかけとして発展していき、現在ではアメリカのデュポン社やドイツのヘキスト社とならんで世界有数の総合化学メーカーになっています。
日本にも化学的なインディゴが、明治時代に輸入されてきます。
阿波藍は、明治35年(1902年)が栽培の最盛期でしたが、明治36年(1903年)以降、ドイツから輸入された合成染料(インディゴピュア)に藍市場をとられていくのです。
関連記事:縞帖とは?縞帖の特徴から時代の変化を読み解く(手紡ぎ糸から紡績糸へ、天然染料から化学染料へ)
明治政府の殖産興業によって、国内の木綿栽培が、海外の安価な綿によって衰退したように、天然藍も合成藍の圧倒的な手軽さを前にして、急速に衰退していくのです。
戦争がはじまり、藍の栽培ができなくなる
1941年から始まった太平洋戦争中は、食料増産が重要な国策のひとつとされました。
とりわけ米や麦などの食料の増産のために、藍や紅花など染料植物の栽培がそれらにとって変わられたのも必然な流れであり、これが日本の藍産業が壊滅的な状況に陥る決定打となりました。
現在では、徳島県内で代々家業として藍作りを行なってきた5軒の藍師達が伝統を守ってきてくれたおかげで、日本の藍文化が残っています。
【参考文献】
- 『阿波藍譜 史話圖説篇』
- 三好昭一郎(著)『阿波藍史』
- 『阿州藍奥村家文書 第五巻』
- 『あるきみく117特集阿波藍小話』