江戸時代後期から明治時代中期にかけて、関東地方、とりわけ千葉県の漁村で大量の年の暮れに船主が船子(船員)に配った半纏を「大漁着」と言います。
豊漁を祝うため、めでたい大柄の文様が型染めで表現され、船子は揃いの半纏を着て初詣をしたようです。 続きを読む
江戸時代後期から明治時代中期にかけて、関東地方、とりわけ千葉県の漁村で大量の年の暮れに船主が船子(船員)に配った半纏を「大漁着」と言います。
豊漁を祝うため、めでたい大柄の文様が型染めで表現され、船子は揃いの半纏を着て初詣をしたようです。 続きを読む
装束という言葉は、体の保護や威厳を示すために身にまとうものを意味しますが、特に一定の格式にかなった衣服、およびその装いを表します。
宝亀11年(780年)に書かれた『西大寺資材流記帳』の780年の項には、「羅陵王装束・・・・」とあったり、平安時代中期の10世紀後半に成立した日本最古の長編物語である「うつほ物語(宇津保物語)」には、「夏冬のしゃうぞく・・・女のしゃうぞく清げにしゃうぞく・・・」などとの記載があるなど、古くから「装束」という言葉が使用されていたことがわかります。 続きを読む
江戸時代において男子の衣服として着用された裃(かみしも)は、古く直垂や素襖のように、上下同じ生地(共裂)共布のものを意味しました。
後に肩衣に半袴をつけること肩衣袴の意となり、江戸時代にさらにその形を整えたものを裃と呼び、武士の公服、庶民の礼服として用いられました。 続きを読む
衣服と染織模様は、世界中のそれぞれの土地で発達していきましたが、歴史的にみると西洋と東洋という大きな括りでも基本的なスタイルの違いをみつけることができます。
模様に関しては、世界各地にさまざまな柄が存在していますが、それぞれの地域や国、民族などの思想や生命観、宇宙観といったものを反映していました。
歴史的には、西洋には西洋の模様があり、東洋には東洋の独自の模様があり、それぞれ人々に育まれてきたのです。
衣服(ファッション)においても、もちろん一概には言えることではありませんが、西洋と東洋の特徴や違いを挙げることができます。
古くから、薬を飲むことを「服薬」とか「内服」などと言います。
服薬はもともと、薬を身につけたり、衣服に縫い込んだりすることを意味しました。
古代の人は、悪霊が体内に入ると病気になると考え、悪霊が体内に入らないように、悪霊がいやがる臭いのキツいものや、強い色彩のものを腰に帯(佩)びたり、体に塗ったりしましたのです。
体内に入った悪霊を追い出すには、体の外に身につけるよりも、口から体内に入れた方が効果があると考え、飲むようになります。これが内服です。
中国古代の地理書である『山海経』では、薬の用い方を「食・佩・服・塗」に区別しています。
「食」は口からのむ内用で、「佩」は身に帯びること、「服」は衣服に縫い込んだりすること、「塗」は皮膚に塗ることを意味します。
【参考文献】『月刊染織α1995年3月No.168』
袈裟は、僧侶が着用する法服の一種で、「功徳衣」、「無垢衣」ともいいます。
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遊廓(遊里)にあって音曲を仕事とする女性は、江戸では「芸者」といい、京都や大阪では「芸子」といわれていました。
江戸時代の遊廓は、官許が限定的に得られていた場所でもあり、働く遊女や芸者は一般市民とは異なった華美な服装が許されました。
そのため、模様(文様)の創案や新しい着付け、装身具など、遊廓で生まれたとされるものが数多くあったと考えられます。 続きを読む
古代ギリシャは、他国との交易が盛んに行われ、染織品においても麻織物を生産したエジプトや西アジアの毛織物などの影響を受けていたと考えられます。
古代ギリシャ時代の染織については、その遺品を見ることができないため、壁画や彫刻などに表現されている服装や古文書における記述、周辺地域の状況などから推測するしかありません。 続きを読む
「衣服規制(いふくきせい)」とは、着用する衣服に関して定められた制度や法令のことで、「服制」や「衣服令(えぶくりょう)」などと言われます。
衣服規制の名残りは、暗黙の社会的ルールやマナーになって、儀礼服を中心として根強く存在しているものもあります。 続きを読む