蓼藍,タデアイ

京の水藍。幻の京藍の歴史と栽培方法


藍染の原料となる藍の栽培は、古くは日本中で行われていました。

京都においては「京の水藍みずあい」という言葉が江戸時代の文献に残っており、品質が高かったとされ、水藍の色は京浅葱きょうあさぎとたたえられていました。

水藍とは、その名前だけあって、水稲すいとうのように水を張って田んぼで栽培された藍のことです。

Persicaria tinctoria bergianska

蓼藍,タデアイ,Persicaria tinctoria bergianska,Udo Schröter, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons,Link

京の水藍の歴史

京都における藍栽培の歴史としては、東寺の年貢算用帖の建武元年(1334年)の頃に藍に関する記載があります。

永亭3年(1431年)には、京都九条の寝藍座が藍葉を無断で東寺境内で乾燥させるので、これを断ったという記録があるようです。

京の水藍の歴史における重要人物に「宇兵衛」がおり、江戸後期の寛政かんせい年間(1789年〜1800年)に、阿波藍の製法を命がけで九条村に伝えた人物です。

宇兵衛の墓は、西九条の福田寺内(京都市南区西九条猪熊町14)にあります。

墓石中央には「阿波屋宇兵衛墓」。東面に「山城藍玉蒅藍根元、願主、当村藍屋平八」。西面に「願主、村々百姓中、同、藍商賣中」。裏面に「天保二辛卯年三十三回忌追善造立(1831年)」とあります。

願主として「村々百姓中」との記載があり、33回忌の追善供養には、九条村の百姓がこぞって参加したことがわかります。

宇兵衛が九条村に阿波藍の製造技術を伝える前にも藍の栽培はされており、京の水藍は無施肥で、畑で栽培する藍も人糞尿が肥料であったようですが、両者に金肥きんぴを与えるということが、宇兵衛が九条村の人々に教えた最大のポイントであり、この教えによって、たっぷりと藍色素を含む京藍となったのです。

金肥きんぴとは、魚肥ぎょひのことで、関東における干鰯ほしかますを上等とし、油粕あぶらかすや五島列島の干鰯ほしかなどを中等、ニシンを下等としたといわれています。

現在の徳島県である阿波においては、16世紀以来、藍栽培や製造法に改良に改良を重ねて日本一の藍に育て上げ、これが藩財政の基本としていたので、この製法を外部に漏らぬよう秘密にし、外部に漏らしたものは罪に問われていました。

関連記事:阿波25万石、藍50万石。徳島藩における藍栽培が盛んだった理由

宇兵衛が阿波藍の製造法を漏らした罰で処刑されたのは寛政かんせい10年(1798年)のことであるため、京都の九条村に阿波藍の製造技法が伝来したのはそれより少し前であると推定されます。

いつまで京の水藍があったのか

1899年(明治32年)生まれの吉川清一郎氏が、京藍の栽培で有名な地であった京都市南区東九条に住んでいました。

彼は、東九条周辺で最後まで藍作を続けた藍問屋「かねう」の主人で、藍問屋として収穫された葉藍を集めて相場を決めて仲買人に卸す仕事をするとともに、自家で4町(約4ヘクタール)の藍田を持ち、藍の栽培と原料のすくも作りをおこなっていました。

当時の京藍は、東九条村と上鳥羽村が主産地で、栽培は、京都駅(1877年開業)あたりから東は鴨川堤、西は天神川、南は鴨川堤沿いに沿って上鳥羽村の南端辺りまでと、広い範囲に渡っていたようです。

水藍を栽培する田は、稲作用水田の借地ではなく、専用のものでした。

水藍は水性野菜である慈姑くわいと同じ場所で交代に繰り返し栽培され(輪作)、春から成夏にかけて藍を栽培し、晩夏から冬にかけて慈姑くわいが植えられました。

Sagittaria sagittifolia BOGA

慈姑,クワイ,MurielBendel, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons,Link

茨菇 Sagittaria sagittifolia 20191224125210

慈姑,クワイ,Ping an Chang, CC BY-SA 4.0, via Wikimedia Commons,Link

慈姑くわいの収穫後、藍を定植するまでの間は耕作を休みますが、その際に土を掘り返したり、元肥を入れたり水田の手入れを必要としなかったと田中氏は語っていたようですが、実情はどうだったのでしょうか。

無施肥であった理由としては、水藍耕作地は肥沃ひよくな土壌で、利用していた鴨川や高瀬川、天神川などの水に肥料分が豊富に含んでいたとも考えられます。

田んぼのことは、その土地の言葉で「ちょぼじ」と言ったようです。

東九条で大正12年(1923年)頃まで藍の製造を続けていた田中七郎右衛門氏によると、「水藍」は高級品種として染色業者に買い取られ、彼の畑の藍は大阪あたりへ出荷していたようです。

「京の水藍」の生産の終わりは、大正11年〜12年頃(1922〜1923年)と言われています。

「地方別藍栽培面積および葉藍生産額」の統計表によると明治30年(1897年)に、全国の栽培面積は5万ヘクタールで葉藍生産量が7万2800トン記録しており、日本の藍は明治30年(1897年)から35年(1902年)をピークにドイツから輸入された人造藍の普及によって減少していきました。

ちなみに、昭和56年(1981年)に徳島県内で生産された藍の作付け面積が14ヘクタールで葉藍生産量が45トンでしたので、日本の藍栽培の衰退がよくわかります。

水藍の栽培方法

東九条村で栽培された藍は、葉が丸みをおびたもので、現地では丸葉と呼んでいたようですので、丸葉蓼藍に品種は近かったと考えられます。

吉川清一郎氏の種まきは、苗場にうねを作って3月下旬ごろに始まりました。

育苗は痩せ地の方が丈夫でしっかりした苗が育つとされ、隣接する深草地域や稲城山を越えた山科やましろに5〜6反の土地を借りて苗場としていました。

4町の田んぼに藍を植えるためには、10石(1800リットル)の種を必要としたようです。採種用の藍畑は三重県の浜辺の砂地に作ったようです。

定植

種まきから1ヶ月半後に、約15センチほどに生長した藍を、4月末から5月5日ごろまでに、田に定植していきます。

1植え5株ずつ、株間10センチとって植えていき、定植後1ヶ月ほどは水田に水を入れず、しっかりと根付かせます。

定植から1ヶ月経過した6月5日頃に、虫づけといって、水田に水を張り、苗を2日間水にどっぷりと漬け、水浸けにして葉についた虫を殺し、生みつけられた卵を腐らせました。

藍田の栽培管理

田んぼは、間口が10間(18メートル)、奥行きが30間(54メートル)で田と田とを分ける境界のあぜで仕切られて、碁盤の目のように並んでいました。

近くの川から引いた水を取水口から田に入れ、藍の根元をめぐった後、はけ口から他の川に流れ出るように設計されていました。

水がよどむことなく、急激に流れることがなく、ゆったりと一定に流れるように稲田はいくらか傾斜を持たせた作りになっており、田の深さは足のすね部分から膝下くらいまでで、浅くても深すぎてもよくなかったようです。

生育中の手入れは、先に栽培していた慈姑くわいの掘り残しが芽を出すので、これを摘み取ったり、葉に虫が湧いたら手で潰すくらいで、水藍はあまり手入れを必要とせず自然に任せていたようです。

栽培管理で特に重要だったことは、藍の生長具合に合わせて、田に入れる水の加減を調節することであり、これは栽培農家によってそれぞれの秘訣があったようです。

葉藍が泥水をかぶると腐ってダメになってしまうため、雨が降ると、泥で濁った川の水が流れ込まないように防いだのです。

葉藍の収穫

藍の定植から約3ヶ月経過すると、背丈が40センチほどに育ち、葉が生い茂ります。

蓼藍,タデアイ

蓼藍,タデアイ

葉藍の一番刈りは、7月20日から8月初旬まで、根本を少し残しながら刈り取られ、収穫の作業も水の中で行われたようです。

刈り取った藍は大きな竹カゴに入れ、背に担いで家に持ち帰り、ナタで細かく刻みます。

刻んだ葉藍はわらでできたむしろに広げて乾燥し、葉っぱと茎を分けていきます。

さらに手動式の扇風機や大きなうちわで風をおこし、葉を飛ばして残った茎をきれいに取り除いた葉を天日の元で乾燥させました。

葉藍には、「いなき」といって刈り取ったまま束ねて、稲のように稲架はさにかけて干したものもあったようですが、「いなき」からできたすくもは品質が悪かったようです。

一番刈りの葉に比べると品質は劣りますが、刈り取った藍の株からは、再び葉が生長するので、8月中旬のお盆の頃には2番刈りを行いました。

二番刈りが終わると、藍の根を掘り起こす「根上げ」の作業が行われました。

蓼藍(タデアイ)の花

蓼藍(タデアイ)の花

藍を保管する藍倉の整備

葉藍はわらでできた袋であるかますに詰めて、場合によっては藍をすくもにする倉(藍倉あいくら)の2階に保管していました。

藍倉あいくらは、全体が頑丈な造りで壁は分厚い土壁になっていたので、人の住む家より3〜4倍の費用がかかったと言われています。

建物自体もさることながら、藍を寝かせる土間にもお金がかかっており、造りとしては約2メートル掘ってから10cmから15cmぐらいの丸い石(栗石くりいし)を入れて、その上にシダ植物のウラジロを重ねて敷き、土をもって土間にしていたようです。

蒅づくり

9月になると、藍倉あいくらすくも作りが始まります。

葉藍に水を打ちながら全体を混ぜる切り返しの作業をし、数日寝かせるという工程を何度も繰り返して発酵させていくことですくもになっていくのです。

京都においても、すくも作りを専業としながら水を打つ量を調節する「水師」と呼ばれる職人が仕事を請け負い、出来上がるまで世話していた場合があったようです。

染め屋の地位や誇りを示した京の水藍

「京の水藍」としてできたすくもは、主に京染め用として上物を扱う染物屋に納められました。

古くは手板ていたといって、できたすくもを水で練って和紙に擦りつけた透かせてみることで蒅の質を見分けていましたが、京の水藍は色に濁りがなくてみ、他所のすくもとは区別ができたようです。

1899年(明治32年)生まれの吉川清一郎氏の家では、1918年(大正7年)の時点で蒅1俵が85円で売られており、当時米が1俵20円、小学校校長の月給が30円、他の国産のすくもが35円〜40円ほどで売られていたようなので、いかに「京の水藍」が高値で売られていたことがわかります。

染め屋は上質なすくもを使っているという看板を店先に掲げることができるため、染め屋としての地位や誇りを示していたと考えられ、それほどに高値で購入する価値があったのでしょう。

【参考文献】

  1. 『阿波藍誕生600年 藍染の展望』
  2. 『月刊染織α1983年No.24』

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です