紺屋は、「こうや」や「こんや」と読みます。
室町時代後期には「職人」という階層が成立し、染色を仕事にする集団が生まれます。
「紺搔」といわれる藍染職人がいたことが『職人歌合絵』などからわかっており、紺搔が江戸時代の「紺屋」の前身と考えられています。
藍染の濃い色は紺ですが、藍染め屋の主な仕事が紺染であったため、いつしか紺家や紺家と呼ばれるようになったとも考えられます。
かつては日本中のいたるところの町や村には紺屋があり、その証拠に現在も日本各地にある地名として紺屋町(こんやちょう、こんやまち、こうやまち)という名前が残っています。
紺屋と諺(ことわざ)
紺家という言葉が使用される諺(ことわざ)が、いくつかあります。
紺屋(こうや)の白袴(しろばかま)
「紺屋の白袴(紺掻き(こんかき)の白袴)」ということわざは、紺屋が自分の袴を染めないで、いつも白袴をはいていることをたとえて、「他人のことに忙しくて、自分自身のことには手が回らないこと」や、「いつでもできることを、放置しておくこと」を表します。
布を紺色に染めるのを仕事とする紺屋が、自分の袴も染めないで白袴を穿いているという対比が、自分自身のことはおろそかになっている様子をよく表しています。
また、染め物をしているのにもかかわらず、シミが一つもない白袴を履いているという職人の意気(仕事の丁寧さ)をあらわしているとも言われます。
紺屋(こうや)の明後日(あさって)
紺屋の職業は、天候や藍の染料の状態(染まり具合)などに左右されるため、「明後日になればできる」と言っては期日を延ばすことが多くありました。
「紺屋の明後日」ということわざは、上記のような言い訳を紺屋がよくしていため、いつできるのかの納期(期限)を定めにくいところから、当てにならない期限の約束を意味しています。
「紺屋の明後日」ということわざから派生して、いつも明後日と言いながらその約束に守らないため、そのような嘘をつく者は特別の地獄へ落ちるということから、「紺屋の地獄」ということわざもできました。
「紺屋の明後日」と同じように、鍛冶屋も「明晩(明日の晩)できます」と言いますが、なかなかその通りにはいかなかったことから、返事だけは威勢が良く、いつできるのか当てにならないことを「鍛冶屋の明晩」と言い表しました。