染色におけるインド藍。歴史と染色方法について


インド藍(学名 Indigofera suffruticosa)は、熱帯地方に分布するマメ科コマツナギ属の藍色素を持つ植物から抽出した染料の名前でもあり、植物の名称でもあります。

日本の本土で古くから栽培されてきたタデアイ(くさの藍)に対して、木藍きあいと呼ばれたりもしました。

Starr 061201-1766 Indigofera suffruticosa

インド藍,Indigofera suffruticosa,Forest & Kim Starr, CC BY 3.0, via Wikimedia Commons,Link

インド藍の歴史

藍染の歴史は古く、古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。

インドでの歴史は古く、古代ローマ時代にはインドで商品化されたインド藍がエジプトのアレクサンドリアを経由してローマへ輸入されました。

アラビア商人によって、エジプトをはじめ地中海方面へと運ばれていましたが、ポルトガルのバスコダガマが南アフリカを周るインド洋航路を発見したことによって、インドにおけるインディゴの生産はいっそう盛んになったのです。

1600年ごろからヨーロッパへ大量に運ばれたインド藍は、その染まりの良さからヨーロッパで栽培されていた藍色を染める植物であるウォード(大青)を市場から追い払い始めたのです。

もちろん、イギリスやフランスなどのウォードの販売業者からの抗議があり、インド藍に対して厳しい規制がかけられましたが、その利便性から次第に浸透していきました。

合成染料の発達によってインド藍の衰退

1880年にアニリン色素が合成されるようになってから、インド藍は徐々に市場から締め出されますが、第一次世界大戦の際に一時的に価格が高騰し、再び栽培の機運が高まりました。

その当時は、化学染料の大半がドイツにおいて製造されていたため、戦争によってドイツからの供給が絶たれたことが理由としてありました。

世界最大の需要を誇った染料とも言えるロッグウッドも、インド藍と同じような繁栄と衰退の歴史をたどっています。

関連記事:染色・草木染めにおけるロッグウッド。世界最大の需要を誇った染料、ロッグウッドの普及と衰退の歴史

インド藍の栽培地は、インドとインドネシアのジャワが中心地でしたが、第二次世界大戦前後のインドの輸出は年間15〜25トンほどまでに減少し、現在ではほとんど栽培されていません。

Indigofera suffruticosa - Köhler–s Medizinal-Pflanzen-076

インド藍のイラスト,Franz Eugen Köhler, Köhler’s Medizinal-Pflanzen, Public domain, via Wikimedia Commons,Link

インド藍の種類

インディゴを作るインド藍は、マメ科の植物ですがいくつか種類があります。

代表的な種類は、ナンバンコマツナギとシマコマツナギの2種です。

ナンバンコマツナギは、熱帯アメリカ原産で、ナンバンタイセイ、インドアイ、キアイなどの別名があります。

インドネシアのジャワへ広がってから植民地支配していたオランダ人によって、タイやミャンマー、マレーシアなどのマレー半島や中国などに広められ、この種の栽培が盛んになったとされています。

シマコマツナギは、ナンバンアイやタイワンコマツナギなどの別名があり、インド各地で栽培されていました。

インド藍の染色方法

藍は、そのままの状態では染めることができませんので、発酵させて色素を水に可溶化させて(還元させる)から染色します。

インド藍も、発酵建てして染めるのが本来のやり方ですが、日本においては気候的に適していません。

熱帯地方の高い気温の状態では、植物が本来持っている微生物が割と簡単に発酵することができるのです。

ただ、発酵を維持することは難しく、化学的な苛性かせいソーダのアルカリを利用したり、還元剤のハイドロサルファイトなどを使用する場合がほとんどです。

本来の自然界からとれる原料のみを使用していたインド藍の藍建てが、どのように行われていたのでしょうか。

藍の液はアルカリ性なので、水に木灰を混ぜて作る灰汁を使用するか、石灰を使用してアルカリ性の液を作ったことでしょう。

菌の栄養源となる糖分も必要ですので、もちろん加えていたでしょう。

藍建ての方法としては、日本では沖縄で行われている琉球藍(キツネノマゴ科イセハナビ属)のやり方と原理的には同じです。

沖縄では、糖分に水飴や泡盛を使用したりします。


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