蓼藍(タデアイ)

阿波25万石、藍50万石。徳島における藍栽培が盛んだった理由


現在の徳島県では、鎌倉時代ごろから藍作の歴史が始まったとされます。

徳島藩が阿波北方あわきたがたと言われた吉野川下流域の農村で生産された「藍」からあがる莫大な租税で、近世を通じて「富裕藩」と言われ、多くの諸藩から羨望されていたことが知られています。

徳島において藍の栽培が盛んになった理由を、いくつか挙げることができます。

阿波25万石、藍50万石

江戸時代中期になると、徳島藩内における藍栽培が繁栄し、「阿波藍あわあい」の名で全国に知られるようになりました。

江戸時代に「阿波25万石、藍50万石」とも言われるほど、阿波藍によって多くの利益を得ていました。

阿波は昔から「北方きたがたは藍どころ、南方みなみがたは田どころ」といわれ、阿波藍の主産地は「芳水ほうすい七郡」といわれた名東みょうどう名西みょうざい麻植おえ板野いたの阿波あわ美馬みま三好みよし地域と吉野川沿いの中下流域で栽培されていました。

吉野川流域農村における藍生産が本格的になるのは、18世紀前後のいわゆる元禄期げんろくき(1688年〜1704年)とされます。

江戸時代の阿波藍の作付け面積は、以下のようになっています。

寛政かんせい12年(1800年)作付け面積 6,502町歩
享和きょうわ元年(1801年)作付け面積5,886町歩
・文化元年(1804年)作付け面積6,298町歩
・文政元年(1818年)作付け面積6,735町歩
天保てんぽう元年(1830年)作付け面積7,132町歩
嘉永かえい元年(1848年)作付け面積6,825町歩
・安政元年(1854年)作付け面積6,912町歩

参照:『阿波藍譜 史話圖説篇』

単位の1町歩ちょうぶは、一たん(31.5m×31.5m)の10個分の広さ(10反)です。

1町歩ちょうぶ広さは9917.4m²で、だいたい100m×100mである1ヘクタールの広さです。

一反あたりの葉藍の収量は、最低15かん(56.25kg)、最高55貫(206.25kg)との記録があり、昭和初年に行われた徳島県農事試験場の検査によると、一反あたり優良葉が45貫(168.75kg)、二番刈りをした葉藍が25貫(93.75kg)という記録が取られています。

かんは、分量を示すために昔はよく使われた単位で、1貫は、3.75kgにあたります。

徳島藩における藍栽培が盛んだった理由

気候や土壌の条件

徳島で藍の栽培が盛んであった理由として挙げられるのが、気候や土壌の条件が生育に適していたという点です。

    具体的には、下記に4点理由を挙げています。
  1. 藍のタネをまく三月ごろは比較的暖かく、降水量も少なかった
  2. 発芽した藍を、畑に移植した後の時期である5月ごろは、晴天の日々が続く
  3. 生育期である6月に、吉野川下流域では降水量が多かった
  4. 吉野川流域は、川に運ばれて低地に積み重なっていった土砂が土壌化した「沖積土壌ちゅうせきどじょう」であったため、土の中の水分量が、降水時と晴天時でもおおきく変わらなく、藍栽培に適していた

民俗学者であった宮本常一みやもとつねいち(1907年〜1981年)(著)『塩の道』には、藍の栽培適地について下記のような記述があります。

蓼藍というのは、砂地で作ることが多いのです。藍は根がぐうっと深く入るし、しかも土がよく肥えているところでないと育たない。これの栽培できる土地というのは、たいへん限られていたのですが、徳島県がその適地であったわけです。そして盛んにここで作られるようになります。

関東では深谷の北、利根川べり、そこに同じような土層があります。そこで作られるようになる。渋沢栄一という人は、その藍商人の家に生まれて、若い時には藍の行商で信濃のほうまで旅をしています。あのあたりで作られていたわけです。ところが関東の藍の適地というのはたいへん狭かった。そこで徳島が日本でもっとも大きな産地になってきます。宮本常一(著)『塩の道』

吉野川流域の徳島と同じように、大きな川が流れている地域の川沿いは、古くは藍の栽培には適している場所だったのです。

蓼藍,タデアイ

蓼藍,タデアイ

米の栽培

二つ目に挙げられるのは、そもそも吉野川流域は米の栽培に適していなかったということです。

米の収穫時期は、秋の降水量が多い時期に重なるため、収穫前に吉野川が氾濫して被害を受けることが頻繁におこりました。

当時は、今のようにしっかりとした堤防はもちろん整備されていなかったのです。

吉野川

吉野川

一方で、藍の葉っぱの刈り取りは秋の雨量が増えるまえに終わるため、非常に栽培が理にかなっていました。

また、藍は連作を嫌うと言われていますが、吉野川の氾濫によって、肥沃ひよくな土砂が流れてきたこともポイントとして挙げられます。

藩の保護政策

一番の生産量を誇り、高品質であるとして阿波藍が全国にその名を知られていた大きな理由が、徳島藩が藍の原料づくりに対して保護政策をおこなっていたためです。

16世紀以来、藍栽培や製造法に改良に改良を重ねて日本一の藍に育て上げ、藍産業が藩財政の基本となっていたので、この製法を外部に漏らぬよう秘密にし、外部に漏らしたものは罪に問われていました。

阿波藍の製造法を他国(違う藩)に漏らした罰で処刑された者もおり、例えば「京の水藍」で有名だった京都の九条村に阿波藍の製造技法が伝えた宇兵衛という人物は寛政かんせい10年(1798年)に処刑されています。

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最盛期(1903年)には、タデアイの作付け面積は、徳島県内の23%にあたる1万5000町歩にも及んだとされます。一町は、1ヘクタール(一辺が100mの正方形と同じ広さ)で面積にして100m×100m=10,000㎡です。

阿波藍の衰退

1880年には藍の色素の化学構造が明らかになり、石油由来の合成インディゴが発明されました。

阿波藍は、明治35年(1902年)が栽培の最盛期でしたが、明治36年(1903年)以降、ドイツから輸入された合成染料(インディゴピュア)に藍市場をとられていきます。

天然藍の原料作りと染色の手間を考えると、コストや生産性においては圧倒的に化学藍に負けてしまいます。

人工藍の到来によって、全国にいた藍作りを担う藍師が続々と藍作りをやめていきました。

また、輸入されたインド藍の影響もありました。

インド藍は、液の作り方が簡単で短時間で染めることことができたため、染色業者はインド藍を扱うようにもなったのです。

化学藍やインド藍の普及により、天然藍の衰退を防ぐことは、困難だったのです。

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藍の栽培が禁止になった理由

藍の栽培が禁止になった理由は、日本が戦争への道を突き進んだためです。

1941年から始まった太平洋戦争中は、食料増産が重要な国策のひとつとされました。

とりわけ米や麦などの食料の増産のために、藍や紅花など染料植物の栽培がそれらにとって変わられたのも必然な流れであり、これが日本の藍産業が壊滅的な状況に陥る決定打となりました。

現在では、徳島県内で代々家業として藍作りを行なってきた5軒の藍師達が伝統を守ってきてくれたおかげで、日本の藍文化が残ってきたのです。

【参考文献】

  1. 『藍染の歴史と科学』
  2. 宮本常一(著)『塩の道』
  3. 『阿波藍譜 史話圖説篇』


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