徳島県では、鎌倉時代から藍作の歴史が始まったとされます。
藍の栽培が盛んになった理由として、大きく三つあります。
目次
気候や土壌の条件
まず一つ目に挙げられるのが、気候や土壌の条件が藍の栽培に適していたということです。
①藍のタネをまく三月ごろは比較的暖かく、降水量も少なかった。
②発芽した藍を、畑に移植した後の時期である5月ごろは、晴天の日々が続く。
③生育期である6月に、吉野川下流域では降水量が多かった。
④吉野川流域は、川に運ばれて低地に積み重なっていった土砂が土壌化した「沖積土壌(ちゅうせきどじょう)」であったため、土の中の水分量が、降水時と晴天時でもおおきく変わらなく、藍栽培に適していた。
米の栽培
二つ目に挙げられるのは、そもそも吉野川流域は米の栽培に適していなかったということです。
米の収穫時期は、秋の降水量が多い時期に重なるため、収穫前に吉野川が氾濫して被害を受けることが頻繁におこりました。
一方で、藍の葉っぱの刈り取りは秋の雨量が増えるまえに終わるため、非常に栽培が理にかなっていました。
江戸時代当時の阿波藩は、石高26万石ほどであったとされますが、藍作によって、財政的には70万石以上であったと言われています。
また、藍は連作を嫌うと言われていますが、吉野川の氾濫によって、肥沃な土砂が流れてきたこともポイントとして挙げられます。
以前徳島に行き、はじめて吉野川をみたときに、その川幅の広さに驚いたことが記憶にのこっています。
当時は、今のようにしっかりとした堤防はもちろん整備されていなかったでしょうから、当時の人の苦労がわかりますね。
藩の保護政策
阿波藍が全国でトップの生産量とクオリティーであった一番大きな理由が、徳島藩が藍の原料づくりに対して保護政策をおこなったためです。
藍の栽培、そして繊細で高度な技術を必要とする原料の作り方を極秘として、オープンにしなかったのが、結果的に阿波藍の繁栄につながりました。
最盛期(1903年)には、タデアイの作付け面積は、徳島県内の23%にあたる1万5000町歩にも及んだとされます。一町は、1ヘクタール(一辺が100mの正方形と同じ広さ)で面積にして100m×100m=10,000㎡です。
天然藍の衰退
1903年が藍栽培の最盛期でしたが、1880年には藍の色素の化学構造が明らかになり、石油由来の合成インディゴが発明されました。
天然藍の原料作りと染色の手間を考えると、コストや生産性においては圧倒的に人工藍に負けてしまいます。
人工藍の到来によって、徳島の藍作りを担う藍師さんたちは続々と藍作りをやめていきました。なんとか、徳島県内で5軒の藍師さんたちが出荷用としての藍作り続けてきてくれたおかげで、日本の藍文化が今も残っているのです。
参照:藍染の歴史と科学