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藍プランテーションの残酷な歴史。『ガンディー平和を紡ぐ人』

インドは、ネパールとの国境近くのチャンパーランという土地では、19世紀にはイギリスの資本家が進出して土地を確保し、大規模なインド藍のプランテーション(大農園)をつくりました。

藍の生産をめぐる悲しい歴史が、そこにはありました。

以下、『ガンディー平和を紡ぐ人』からの引用です。

藍プランテーションには残酷な歴史がある。土地を買い取ったイギリス人の農園主は、ティンティア(二十分の三)制度というしくみの下で、農民に藍栽培を強制し、収穫物を安く買いたたき、労働を強制し、地代やその他の代金を支払わせた。

1828年にファリドプル県の司法長官は、農園主に射殺された農民の何人もの遺体を確認し、「イギリスに届けられた箱詰めの藍は、人々の血で必ず汚れている」と報告したほどである。

十九世紀末にドイツ製の化学染料が市場に出されると藍は売れなくなったが、農園主は他の作物への転換を許さず、農民から搾り取ることで自らの収入を補填しようとした。

第一次世界大戦中はドイツからの染料が入手できなくなったため、再びインドの藍への需要が高まり、農園主には好機となったが、戦時の物価高騰を前に、農民の暮らしは厳しさを増すばかりだった。

このような悲惨な1917年にガンディーがチャンパーランの地を訪問し、農民運動を引き起こします。

藍をめぐる歴史のなかでの、悲しい事件の一例ですが、この他にもたくさんの悲劇的な過去があったのでしょう。

どのような流れを経て、染料の今があるのかなど、もっともっと歴史を学ばなければいけないと思います。

藍染における勝色の由来は?

竹内淳子著『藍(あい)風土が生んだ色』にて、サッカー日本代表のユニフォームの色を指してよく言われる「勝色」についての記述があります。

中世になって、藍色を搗色(かちいろ)とか勝色、または褐色と書いた。これは藍染の染着をよくするために、染めあげた布を臼や板の上で叩いたので、それを「搗つ(かつ)」といったことから、「搗つ」を「勝つ」にかけて勝色という文字を当てた。色が堅牢なところから、また「勝」にあやかって武具に用いたのである。褐色威(かちいろおどし)がこれである。

色素の定着をよくするために、染め上がった布を叩いていたというのは知りませんでした。

その叩く動作のことを、「搗つ」といい、そこから文字って勝色ともいうようになったんですね。

古代の染色技法。絞り染めの纐纈(こうけち)、板締めの夾纈(きょうけち)、ろうけつ染めの臈纈(ろうけち)の三纈(さんけち)とは?

歴史の教科書のなかで一度は、三纈(さんけち)という言葉を目にしたことがあるのではないでしょうか。

漢字で書くと非常に難しいですが、三纈(さんけち)とは、三種類の染色技法に関するものです。 続きを読む

日本最古の染料植物とも言われる山藍について。宮本常一著『塩の道』

昔から、世界中で藍染が行われてきましたが、その原料となる植物は地域によってさまざまです。

日本では、徳島で作られているタデ科の植物である蓼藍(タデアイ)が主に藍染の原料に使われていて、その中でも沖縄では、琉球藍と呼ばれているキツネノマゴ科の植物が藍染の原料として栽培されています。インドではマメ科の植物、ヨーロッパではアブラナ科のハマタイセイという植物であったりします。

その土地の気候や風土にあった植物が藍の原料となっていましたが、タデ藍を使った藍染が日本で一般的になる前は、日本最古の染料植物とも言われるトウダイグサ科の山藍(ヤマアイ)が使われていました。

その山藍に関する記述が、民俗学者であった宮本常一さんの著書『塩の道』に記載されていたので紹介したいと思います。 続きを読む

天然藍が持つ美しさ。柳宗悦著『手仕事の日本』

昭和十五年(1940年)前後の日本の手仕事の現状を記した『手仕事の日本』という本があります。著者は、「民藝」という言葉の産みの親でもある柳宗悦(1889~1961)さんです。

「民藝運動」という言葉は、誰しも一度くらいは聞いたことがあるのではないでしょうか。柳さんは、「民藝運動の父」とも呼ばれ、私たちが日常的に使っていた道具の美しさを指摘した最初の人物でした。

さて、そんな柳さんが全国を旅した知見から紹介されている数々の手仕事のなかでは、もれなく日本の「藍」に関する記述があります。

藍に興味がある方は、ぜひ読んでみてください。以下、『手仕事の日本』からの引用です。 続きを読む