日本の綿花栽培・木綿生産が普及した歴史。苧麻が、木綿に取って代わられた理由。


江戸時代に流通した主な商品は、米を抜きにして考えると、木綿・菜種・干鰯(ほしか)・酒・材木・藍などが上位を占めました。

江戸時代以前、木綿が大陸からやってきて広がっていく前は、日本において苧麻(からむし)を原料にした布が一般的に生産されていましたが、戦国時代から江戸初期にかけて、木綿が爆発的な普及したとされます。

理由としては、大きく2つ挙げられます。

苧麻は、木綿の10倍は手間がかかる

苧麻に比べると木綿は、栽培から糸をつむぎ、織物にするまでの全行程を通じて分業がしやすく、原料の段階から流通させやすく、経済性に優れていたことが挙げられます。

苧麻ですが、繊維を糸にする作業が苧積み(おうみ)と呼ばれますが、1日で21グラム(6~7匁足らず)ほどの糸しか作れず、平織りしてできる麻の布である上布一反につき、200匁近くの糸が必要だったそうです。

苧麻は、木綿の10倍は手間がかかるとも言われています。短期間のうちに木綿が麻に取って代わられた最大の理由は、苧麻生産には莫大な時間と労力がかかった点でしょう。

※匁=古い重さの単位「め」又は「もんめ」と読み、1000匁が1貫(かん)で、3750gです。

品質的な面で言うと、苧麻は生地の非常に丈夫ですが、木綿は保温性にすぐれ、肌触りが良いので身にまとう用途で考えると、機能性に優れていたのは後者でした。

木綿の普及を示す文献

苧麻・絹・木綿の社会史』の中には、木綿が一般庶民に普及したことを示す文献が二つ挙げられています。

まず、1628年に幕府が出した、百姓が着るものについて定書です。

百姓着物之事 定

一、百姓之着物之事、百姓分之物は布・木綿たるべし、但、名主其他百姓之女房は、紬之着物迄は不苦、其上之衣裳を着候之者、可為曲事者也、

「布」は苧麻布のことで、「紬」はくず繭からとる手ひきの太い絹糸の織物だそうです。

つまり、定書が言っているのは、「百姓が着るものは、苧麻か木綿であるべきだが、名主の農家の女房は、紬の着物まではなんとか認める、それ以上によいもの着る人は変わり者である」というようなことです。

※名主=江戸時代、一村の代表で、村の行政や治安などに携わりまた、農事指導などに当たった者。主に関東での呼び方で、関西では「庄屋(しょうや)」と言いました。

もうひとつの史料が、1643年に幕府が出した「郷村御触」に出てくる以下の一条です。

一、田方二木綿作り申間敷事
※申間敷 ( まをすまじく )=すべきではない

田んぼに、木綿を作るべきではないと、禁止令が出ています。それほど、稲作よりも高い利益をあげられたのが、木綿だったのです。

苧麻・絹・木綿の社会史』の著者、永原慶二さんは、上記の二つの史料を踏まえても、木綿栽培と商品化が、17世紀前半ごろの江戸時代の早い時期には、幕府が栽培を問題視しなくてはならないくらいには、広がっていたのではないかと結論づけています。

木綿はいつごろ日本にきたのか

木綿は、まず中国や朝鮮から輸入品としてやってきたきましたが、実際に木綿を知って使い出したのはいつ頃なのかをはっきりと示すのは難しいようです。

1200年ごろの、鎌倉時代初期には中国から綿がやってきたと推定できる文献はあるそうです。

15世紀に入ると、木綿の実用例が増えますが、まだこの時期は貴族の間でも木綿は貴重な布地だったようです。

最初に木綿が最初に生産されたのがわかる史料としては、『金剛三昧院文書』におさめられた1479年の「筑前国粥田荘納所等連署料足注文」にあると、『苧麻・絹・木綿の社会史』では書かれています。

送進上之土産事、木綿壱端令賢房へ進之

令賢房という人物に、「木綿壱端」が進上された

この史料が、木綿栽培が最初に記録されたものであるとは断定はできないようですが、1551年の『天文日記』には「唐木綿」と「日本木綿」が書き分けられていることから、室町後期の大永(1521年~1528)から天文(1532年~1555年)頃には、すでに日本での綿栽培が広がってきていたとされています。

栽培地域は、東北地方は寒くて生育が難しかったとされますが、西は九州から、東は関東まで各地で広がっていたようです。

麻のようなシャキッとした繊維しか知らない人が、木綿を初めて手に取ったときどのようなことを思ったでしょうか。糸の柔らかさと温かみに、さぞかし驚いたのでしょう。

木綿が日本に渡ってきた歴史や、その後の主生産地の集中などをより具体的に知りたい方はぜひ、『苧麻・絹・木綿の社会史』を読んでみてください。


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