伊勢型紙(いせかたがみ)は、三重県鈴鹿市の白子町と寺家町が古くから産地として有名でした。
小紋や中形、友禅型や手拭い型など各種の型紙が製作されていました。
現在では需要の減少とともに、ほとんど生産されなくなっています。
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編み物技術の起源としては、はっきりとしたものはありませんが、編み物(ニッティング)は、およそ3000年前に、アラビア半島に住む遊牧民によって、彼らが自ら率いる羊や山羊の毛を使って行われていたとも考えられす。
編み物は、アラビアの商人や船乗りによって、徐々に他国に伝わっていき、編み手は旅する時に、編針と糸を持参して、編みながら立ち寄った港の人々に技術を伝えたとされます。
ただ、歴史的に参考になるような品々や資料は、ほとんど残ってない状況です。
現存する最古の編み物に遺品とされるものは、11世紀後半から12世紀前半ごろに作られたとされ、エジプトで発掘されたくつ下の一部です。
この時期にはすでに編み物が技術的に発達していたことが、うかがい知れるのです。
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紋というと、基本的に「家紋」を表し、代々その家に伝わる家の印として、家系や個人を識別し、その地位を表すために使われてきました。
紋には、正式の紋と略式の紋があり、略式の紋は正式の紋の一部であったり、全く別の簡単な図柄を使うこともあります。
紋はもともと武家の男子に用いられていましたが、江戸時代中期以降に、武家の女子にも使い始められ、彼女たちの小袖の背中と両袖に1つずつ染め抜かれるようになりました。 続きを読む
江戸っ子という言葉が、文献にみえはじめるのは、18世紀後半の明和年間ごろ(1764年〜1771年)とされます。 続きを読む
金彩とは、文字の通り「金」で「彩る」金加工のことを表し、細工物に箔や金泥で装飾する技法です。
金彩の技術を簡単に言うと、繊維の上に金属を糊料で接着する技術ということになります。
金彩は、安土桃山時代の摺箔でみるように繻子や綸子地などを主に、衣服に金箔 や金泥で加工してきた歴史的経過があります。
金彩と同じ金加工の技法に、印金があります。
印金は、羅や紗、絽などの薄手の生地に加工し、袈裟や表具、仏具に主な使途がありました。
鎌輪奴文は、「鎌の絵」と丸い輪「○」と、「ぬ」の三文字を組み合わせた模様(文様)です。
鎌井枡文は、「鎌」と「井」と「三桝(大・中・小の三つの枡を入れ子にし、それを上から見た形を文様化したもの)」を組み合わせた模様(文様)です。
江戸時代には、「判じ物(はんじもの)」と呼ばれる文字や絵画に隠された意味を当てるなぞ解きが流行し、判じ物文様(はんじものもんよう)として生まれた模様が多くありました。
江戸時代前期に、男伊達(男としての面目が立つように振る舞うこと)の衣服に「鎌輪奴文」が用いられます。
鎌輪奴文は、「鎌の絵」と丸い輪「○」と、「ぬ」の三文字で「構わぬ(かまわぬ)」と読ませるために作られた模様です。
江戸時代後期の文化文政時代(1804年〜1830年)から天保(1831年〜1845年)にかけて活躍した江戸の歌舞伎役者である7代目市川團十郎が、文化年間(1804年〜1818年)に「鎌輪奴文」を舞台で用いたことから流行します。
江戸では衣服から手拭い、瀬戸物、櫛、簪などに良く描かれました。
鎌輪奴文が流行したことに対抗して、市川男女蔵が考案したのが「鎌井枡文」でした。
「鎌井枡文」は、「構います(かまいます)」と読ませるために作られた模様です。
歌舞伎で用いられる模様(文様)は、歌舞伎文様として江戸時代前期から一般の服飾(ファッション)に影響を与え、流行の発生源にもなっていました。
例えば、「斧琴菊文」は、斧(よき)と琴と菊の花の模様を染め出して「良き事聞く」という縁起がよい意味を込めたデザインなどがあります。
絞り染めとは、部分的に布に染まらない部分を作る防染の技術です。
布の一部を糸で強く巻き締める「巻き締め」や、針と糸で布を縫い、その糸を引き締めることによって防染する「縫締め」と呼ばれるものが基本的な技法です 続きを読む
江戸時代(1603年〜1868年)に入ると、染織技術の向上によって、日本各地で特色のある織物や染め物が生産されるようになりました。
1638年に松江重頼によって出版された『毛吹草』や1692年に艸田寸木子によって出版された『女重宝記』には、多くの織物や染め物が記載されています。 続きを読む
蟹(カニ)を模様化(文様化)したものを、蟹文といいます。
蟹は、硬い甲羅で身を守って(武装して)いるため、尚武の意味(武道や軍事を大切なものと考える)で紋章にも用いられてきました。
安土桃山時代(1568年〜1600年)頃に作られたとされる「薄水色地蟹文麻浴衣」は、小判形の胴に大きなハサミを開けたり閉じたりする蟹が散りばめるようにデザインされています。
カニの模様(文様)部分に防染糊で型置きして糊伏せした後に、藍染されています。
徳川家康(1543年〜1616年)が着用していたとされる浴衣は、三十三点(領)がまとめて現代まで遺されており、『駿府御分物』として伝えられました。