縞帖(1857年)(安政四年嶋染集帳)

縞帖(縞帳)とは?縞帖(しまちょう)の特徴から手紡ぎ糸から紡績糸へ、天然染料から化学染料への変化を読みとる


古く、機織はたおりは各家庭でおこなわれ、もっぱら女性の仕事でした。

縞帖しまちょう(縞帳)とは、自家用で作る織物の参考のために、使い終わった大福帳だいふくちょうの上に縞柄しまがらきれが無数に貼りつけられたものです。

縞柄のきれが貼られた縞帖しまちょうには、年号が記されたものも多く(経年劣化で解読できないものも多い)、貼り付けられた織物の年代を知る手掛かりとなります。

縞帖しまちょうの特徴から、時代の変化もみえてくるのです。

縞帖(縞帳)の特徴から時代の変化を読みとる

海外から様々な縞織物しまおりものが届いたことによって、それを真似するところから始まり、徐々に日本でも独自の縞織物が生産されるようになります。

上着や一枚着として着物に縞柄が見られるようになったのは、安土桃山あづちももやま時代(1573年〜1603年)以降のようです。

江戸時代後期には、町人の間で特に好まれたのが縞柄の織物でした。

縞柄の見本帖、そして織柄の参考にするために縞帖しまちょうが作られるようになったのは自然な流れで、女性たちにとっては、極めて大切なものとして保存されてきました。

縞帖(縞帳)が作られるようになった時期は、民間で縞織物を織り始められてからのことで、江戸時代後期頃と考えられます。

縞帖(縞帳)の表紙には、「縞手本」や「縞見本」などと墨で書かれることも多くありました。

縞手本(縞帖・縞帳)

縞手本(縞帖・縞帳)

縞帖しまちょうに保存された布片は、タテ×ヨコが4cm×6cmほどのものが多く、飯粒を練ってのり代わりにし、貼り付けられました。

縞帖しまちょうには年号が記載されていることがあり、文字による記載がない限り、織られた産地を知る手がかりをつかむことは難しいです。

縞帖(1857年)「安政四年嶋染集帳」

縞帖(1857年)「安政四年嶋染集帳」

江戸時代の庶民の衣服の模様を研究するためには欠かせない資料ですが、岡村吉右衛門(著)『庶民の染織』には、年号がわかる縞帖しまちょうから読み解ける点があると記載されています。

以下、『庶民の染織』からの引用です。

年号の明記してある縞帖を見ると、徳川中期のものには明るい地色が多く、天保てんぽうあたりから紺地が、そして明治に入ると縞に濃茶が目立ってくる。

明治の十年頃まではほとん経緯たてよこ手紡てつむぎであり、それ以後色糸に紡績糸ぼうせきいとが使われ、次第にたてが紡績に、明治三、四十年になると手紡糸は程ど見られなくなってしまう

手紡糸であることは、丹波たんばとか弓浜ゆみはまを除いて明治中期以前のものということができよう。『庶民の染織』

上記の引用では、天保時代(1830年〜1844年)あたりからは紺地の縞柄が目立ってくることから、藍染が盛んに行われるようになっていることが読み取れます。

関連記事:縞柄と粋。江戸時代に、町人の間で流行した縞の文様の由来とは

明治10年頃(1877年)までは、基本的には経糸と緯糸に手紡ぎ糸が使用されていますが、明治30年(1897年)から明治40年(1907年)になると、ほどんどの織物において機械で紡績ぼうせきされた糸が使用されている(手紡ぎ糸がほとんど見られない)と岡村吉右衛門は指摘しています。

縞帖(1857年)「安政四年嶋染集帳」

縞帖(1857年)「安政四年嶋染集帳」

手紡ぎ糸から紡績糸へ

手紡ぎ糸から紡績糸ぼうせきいとに変わっていったのには、イギリスから機械生産による規格の統一された安価な綿糸や綿織物が大量に輸入されてきたことが背景にあります。

紡績機械が開発された歴史としては、1764年ごろにハーグリーブス紡績機が発明され、1769年にはアークライト水力紡績機械の特許取得がなされ、1779年にはイギリスの発明家サミュエル・クロンプトンによってミュール紡績機の発明がイギリスでなされました。

ハーグリーブス紡績機が発明された1764年は、日本において明和元年にあたります。

機械で紡績された糸は、江戸時代末期に琉球を経由して輸入されたことがあったようですが、嘉永かえい6年(1853年)にペリーが来航し、日米和親条約が1854年に締結され、日本が開国したことが大きな契機となります。

安政あんせい5年(1858年)に日米修好通商条約にちべいしゅうこうつうしょうじょうやくが締結されると、後に、同じような条約をイギリス・フランス・オランダ・ロシアとも結びます。

これによって、大量の機械紡績糸きかいぼうせきいとが輸入されることになったのです。

各国から綿が大量に輸入されたため、良質で安価な海外綿に対抗できない国産綿は、瞬く間に大きな打撃を受けました。

関連記事:和綿が衰退した歴史。産業の近代化の波に飲まれ、輸入綿を原料に、和綿が切り捨てられる

機械紡績糸は、唐糸からいとや洋糸と称し、従来の和紡糸にくらべると、強伸度きょうしんどよく、堅牢けんろうで、染色性も美しく、糸ムラも少ないため、明治4,5年から10年頃(1877年)にかけて非常に多く輸入されました。

洋糸を経糸にして、和紡糸を緯糸にした木綿布を「半唐木綿とうもめん」と呼び、経緯を共に洋糸にしたものは「丸唐木綿とうもめん」といいました。

明治15年(1882年)ごろになるとエジプト綿を用い、表面の毛羽けばをガス焼きした細糸がイギリスからたくさん輸入されるようにもなります。

日本においても機械紡績が次第に発達し、海外へ綿糸が初めて輸出されたのは、明治23年(1890年)のことです。

この年の綿糸の輸入総数は、4255万4千ポンド(1ポンドは、約0.4536kg)にも達しています。

ただ、それから7年後の明治30年(1897年)には、輸出綿糸が輸入綿糸を上回り、その後輸入綿糸は次第に減少していきました。

このような手紡ぎから紡績糸への転換期が、縞帖しまちょうからも読みとれるのです。

縞帳(縞帖)

縞帳(縞帖)

天然染料から化学染料へ

縞帖しまちょうに貼り付けられた裂が、実際にどのような染料で染められたものかどうかは、はっきりとわかりませんが、天然染料で染められたかどうかは、明治35年(1902年)頃がターニングポイントになると考えられます。

つまり、それ以前に制作された縞帖しまちょうであれば、天然染料で染められているきれの可能性が高いと考えられます。

1834年にドイツの科学者ルンゲがアニリンブルーを発明して以来、化学染料が次々と開発され、1884年、ドイツのベーチゲルによって、直接染料が発明され、現在知られている化学染料の多くは出揃っています。

日本においては、明治時代に入ってからは、だんだんと化学染料が普及していき、日本において初めてできた化学染料会社は、1916年に創設された日本染料製造株式会社で、後の1944年に現在の住友化学株式会社に合併されています。

1880年には藍の色素の化学構造が明らかになり、石油由来の合成インディゴがドイツで発明されました。

藍染の原料作りが盛んであった現在の徳島県では、明治35年(1902年)が栽培の最盛期でした。

関連記事:日本における藍染の歴史。藍作・藍染が発展し、衰退していった背景について

明治15年、16年頃からインド藍が大量に安く輸入されて国内の藍産業は大きな打撃を受けますが、明治36年(1903年)以降、ドイツから輸入されてくる合成染料(インディゴピュア)によって、決定的なダメージを受け、従来の藍産業がどんどんと衰退していきました。

昭和5年頃(1930年)には、化学染料が一般的にも普及してきている頃で、手間がかからず染色できるようになり色彩の幅も広がりましたが、伝統的な染色は急速に廃れていくことになりました。

縞帖を購入する方法と選び方

縞帖には、縞柄以外にも、小紋染めや型染めされた裂が貼られることもある「安政四年嶋染集帳」

縞帖には、縞柄以外にも、小紋染めや型染めされた裂が貼られることもある「安政四年嶋染集帳」

縞帖は、テキスタイルデザインの参考にもなります。

縞帖を購入する場合は、ネットオークションの「ヤフオク!」に出品されることがあるのでチェックしてみると良いでしょう。

手紡ぎ糸で化学染料を使用していない可能性が高いきれが貼っている縞帖は、上記でも述べたとおり、明治30年頃(1897年)より以前のものです。

縞帖しまちょうに書かれている年号は、劣化で読み取れなかったり、そもそも記載がない場合もありますが、記載されているのであれば、明治初期以前のものを選んで購入する方が「価値が高い」と思えます。

もちろん年号は古くとも、きれが貼り替えられている場合があったり、明治30年頃(1897年)以降のものでも、手紡ぎ糸で天然染料を使用しているきれというのもたくさんあるでしょう。

関連記事:雛形本(ひながたぼん)とは?染織におけるデザインの見本帳について

【参考文献】

  1. 岡村吉右衛門(著)『庶民の染織』
  2. 『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会
  3. 高橋 キヨ子 (著), 佐藤 和子 (著)『縞帳を尋ねて-郷土の織りの伝承

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です