蓼藍(タデアイ)

地藍(じあい)とは?本場の阿波藍に対する地藍について


地藍じあいとは、その土地で栽培された藍という意味でこの名前があります。

江戸時代になってから木綿の栽培が盛んになり、全国的に仕事着や日常着に着用されるようになったのが、藍染された紺木綿や紺絣こんがすりでした。

その藍の需要増加にうまく対応したのが、現在の徳島県の阿波あわで、藍の原料作りといえば阿波が本場とされました。

本場の阿波藍に対する地藍(じあい)について

江戸時代中期になると、徳島藩内における藍栽培が繁栄し、「阿波藍あわあい」の名で全国に知られるようになりました。

江戸時代に「阿波25万石、藍50万石」とも言われるほど、阿波藍によって多くの利益を得ていました。

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藍の葉っぱを栽培し、乾燥、発酵させてできた原料をすくもといいますが、すくもうすでつき、固めてたものは「藍玉あいだま」と呼ばれていました。

蒅(すくも)の状態にするため、藍の乾燥葉に水をかけて発酵させる過程であらわれる発酵菌(白い部分)

蒅(すくも)の状態にするため、藍の乾燥葉に水をかけて発酵させる過程であらわれる発酵菌(白い部分)

しかし、阿波藍だけでは藍の需要を満たしきれないため、全国各地で紺屋の要請で藍の栽培が行われ、紺屋こんや(こうや)自体でも藍の製造が行われる場合もありました。

藍の本場とされる阿波藍に対して、地藍じあいという言葉が使われたのです。

現在の埼玉県でも江戸時代から藍の栽培(藍作)と藍染が行われており、明治初期には阿波藍あわあいに次ぐ全国第2位の生産高を誇っていました。

埼玉県深谷市で生まれ育った「近代日本経済の父」と称される渋沢栄一(1840年〜1931年)の実家は、藍づくり農家でした。

渋沢栄一は藍玉の製造販売に従事し、上州じょうしゅう(現在の群馬県)や信州しんしゅう(現在の長野県)などに出張していたのことがよく知られています。

当時、渋沢栄一のように「地藍」を製造していた人々は、本場の阿波藍に追いつけ追い越せの精神で、藍の仕事に従事していたとされます。

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