武蔵国は、現在の埼玉県と東京都、神奈川県の一部でした。
江戸時代において、武蔵国のうち、「将軍のお膝元」である江戸城及び江戸市中は御府内と称されていました。
現在の埼玉県域は、江戸時代以降、独自の個性を活かした歩み方をするのではなく、すべてが江戸や東京という大都市との間に、密接な繋がりを持って今日に至っています。
江戸時代は、御用職人(幕府や諸藩、武家屋敷に召し抱えられた職人)や町職人、足軽や下級武士が内職として、城下町でいろいろな手工業の仕事をしていました。
武州におけるものづくりの形成を考える場合、江戸やその他の城下町形成期における職人の存在、享保期(1716年〜1736年)以降の江戸を取り巻く経済圏の中で培われた地場生産物の職人、明治維新になってから士族(旧武家)が職人となったものなどが挙げられます。
江戸における職人とものづくり
徳川家康(1543年〜1616年)が関東に入国した当時の江戸は、広大な原野が続く寒村(さびれた村)だったといいます。
家康は江戸入城に際し、家臣はじめ多くの職人や商人を供奉し、江戸城の修築や江戸の町づくりに参加させ、幕府成立後は京都や大阪からも多くの職人が移り住んでいます。
優れた技能を持つ職人群を江戸に集住させ、支配者が有効に利用できるように編成するのが課題でした。
江戸城の修築や町づくりに密接に関係しながら、江戸の町数は300町にも達し、それだけ業種も多く、あらゆる職人が集住していたのです。
後に現在の埼玉には、江戸の職人町から関東大震災や太平洋戦争などの疎開などで、腕の良い工匠たちが移り住んで、開業したという例も多くあったようです。
関東における生産性の向上
関東の農村における生産が飛躍的に高められるようになったのは、享保改革期の商品作物の奨励という農政転換がありました。
享保改革以前は、江戸に住む人々を養う物資は、関西から送られてくるものが多かったのが、元禄(1688年〜1704年)から享保にかけて生産力が高まるにつれて、関東の生産物も江戸の人々を支えるための一翼を担うようになります。
関西から送られてくる商品は「下り物」と称したのに対し、関東や江戸周辺のものは「地廻り物」と呼ばれました。
享保(1716年〜1736年)以降は、下り物と肩を並べて地廻り物を取り扱う問屋も増えていきました。
しかし、高級なものは関西のものに劣るとして、関東は「下らない物」と卑下する向きもあったようですが、素朴で誠実な仕事ぶりがかえって好評であったとも言われます。
江戸近郊の商品生産の展開は、農民が農業以外の仕事に携わる農間渡世者や町に出て商人や職人になるものを増やす要因となりました。
地場もの産地では、多くの弟子を雇い入れ、親方が厳しい従弟教育をしながら技術指導をし、弟子は見様見真似で「ものづくり」を習熟し、長い修業の後一本立の職人として認められたのです。
こうして地方に多くの職人が育っていくと、江戸職人との競争も生まれました。
明治維新後に、わずかな秩禄公債(秩禄を自主返納する武士にはこの公債が渡された)では生活できずに困窮した士族(旧武家)が、組紐や櫛作りなどの工芸品作りを始めたものも少なくありませんでした。
東京に近いという条件から全国的に希少で、工芸的に格調の高い製品を作る工匠が、移住するケースも多かったようです。
江戸時代の埼玉県域において有名だった地場生産物
江戸時代の埼玉県域において有名だった地場生産物には、以下のようなものがあります。
- 岩槻白木綿
- 武州青縞 関連記事:青縞(あおじま)と呼ばれる藍染された布。埼玉における藍の栽培と藍染について
- 江戸小紋 関連記事:江戸小紋(こもん)とは?江戸小紋の歴史や制作工程について
- 秩父絹
- 小川絹
- 八幡山絹
- 川越絹
- 本庄絹
- 熊谷友禅
- 熊谷西陣
- 飯能大島
- 本庄伊勢崎
- 岩槻人形
- 鴻巣雛赤物
- 越谷段びな
- 張子人形
- 武州だるま
- 春日部桐だんす
- 押羽子板
- 熊谷五家宝
- 川越芋煎餅
- 草加煎餅
- 川口鋳物
- 加須鯉のぼり
- 細川紙
- 行田足袋
- 赤山渋
- 狭山茶
- 釣竿
- 水のう
【参考文献】『武州手づくり 伝統芸に賭けた工匠たち』朝日新聞浦和支局(編)