木や藁の灰に水や熱湯を加えてかき混ぜると、灰が沈殿したその上澄み液が灰汁と呼ばれるアルカリ性の液体になります。
古くから世界中で洗濯用の「洗剤」として広く使われていたり、日本ではお酒に混ぜてアルカリ性にすることで防腐や色つけ効果を求めたり、和紙や焼き物の製造などに活用されてきた歴史があります。
普通に生活していても、灰汁というものにふれる機会はないと思いますが、現代においても灰汁が活用されている分野があります。 続きを読む
木や藁の灰に水や熱湯を加えてかき混ぜると、灰が沈殿したその上澄み液が灰汁と呼ばれるアルカリ性の液体になります。
古くから世界中で洗濯用の「洗剤」として広く使われていたり、日本ではお酒に混ぜてアルカリ性にすることで防腐や色つけ効果を求めたり、和紙や焼き物の製造などに活用されてきた歴史があります。
普通に生活していても、灰汁というものにふれる機会はないと思いますが、現代においても灰汁が活用されている分野があります。 続きを読む
車輪梅(しゃりんばい)は、バラ科シャリンバイ属の常緑低木で、日本(東北地方南部以南)、韓国、台湾までの海岸近くに分布します。
しゃりんばいという名前の由来は、4月から5月ごろにウメに似た白色の花が、円すい状に集まって開花し、枝と葉っぱが車輪状に付くことから命名されました。
樹皮から作られた染料が、大島紬の泥染用に使われることで知られています。
月刊染織1994年4月号に、実際に染めてみた例が記載されているので紹介します。
①まず、原木を砕いて、厚さ0.5cm~1cmほどのチップ状にします。
②チップ30kgに炭酸ナトリウム45gを加え、水に浸かるようにして鍋に入れ、約6時間煮沸します。
③染液をふるいでろ過してクズを取り除き、90リットル分に調整します。
④3日間後に、染色に使います。
①シルク糸400gを染液16ℓで沸騰するまで加熱したあと、1時間そのまま放置して冷やします。
②次に、0.02%クロムみょうばん水溶液40ℓに糸を分浸けて、媒染します。
③糸を自然乾燥で干した後、鍋にいれて、1or2ℓの染液をかけ、5分間揉み込み染色します。
④再び、染液16ℓで煮沸するまで加熱します。
⑤1時間、そのまま放置して冷やしてから②→③の工程をします。
⑥3回目と同じく繰り返し、4回目の煮沸染色をおこなった後、水洗いをして染色が終了です。
上記の染色の結果ですが、色合いは、濃い茶色となり、光に対する堅牢度が4級、重量増加率は 8.9%であったようです。
人類は、古くから自然の植物から色を獲得して、自ら身にまとう布に対して染色をおこってきました。
古代の人々が、まずは目の前にある、色のついた土や植物から色を獲得してきたというのは容易に想像ができます。
ただ、古代に始まった染色は、色をつけるためだけのものではありませんでした。
もともとは、自分の身を守るための薬用効果を求めてはじまったとされているのです。
江戸時代に奈良では、織り上げられた麻の布を白く晒した(漂白した)上質な布が生産されていました。
当時から、「奈良晒(ならざらし)」と呼ばれました。
室町時代には、奈良晒しの原料となる、苧麻(からむし(イラクサ科の多年草木))は、苧引き(おびき)という皮剥ぎを行なって、繊維を苧積み(おうみ)できる直前の状態まで半加工して、青苧(あおそ)という状態で流通していきました。 続きを読む
染色方法には、基本的に6種類に分けられます。
直接染料は、染料自体ががそのまま水によく溶けます。そのため、染料で水溶液をつくり、その中に繊維を浸して加熱することで染めることができます。
綿や、麻、レーヨンなどのセルロース繊維に使う直接染料や、羊毛やシルクなどのタンパク繊維に使う直接染料、アクリル繊維に使うカチオン染料などは、直接染法です。
染め方の原理としては一番簡単ですが、一般的には色がクリアに染まりずらく、洗濯や太陽の光に対する堅牢度は高くありません。そのため、古くから色止めの方法がさまざま工夫されてきました。 続きを読む
1986年06月号の月刊染織α (アルファ)に、平安時代中期には、樫の木を使って染色が行われていたことを示す記述があります。
樫は白樫、赤樫、荒樫などの樫の類の総称である。
枕草子には「白樫といふものは、まいて深山木の中にも、いと、け遠くて、三位二位のいへの衣染むるをりばかりこそ、葉をだに人の見るめれば、をかしきこと、めでたきことに取り出づべくもあらねど、」とあって、白樫で黒袍(くろほう)を染めていたことが記されている。この事から万葉時代にも黒染にしようされていたものと考えれれる。
樫の類はすべて常緑の葉であって、葉による染色はあまりよくは染まらないが、白樫では銀鼠色、荒樫では黒鼠が染まる。
古くから樹皮を用いて黒染してきたが、樹皮では鉄媒染で黒鼠から黒色を染め、灰汁媒染で茶を鉄と灰汁の併用で焦茶色を染めてきた。また堅果(どんぐり)殻斗(かくと)ではいわゆる橡色(つるばみいろ)といわれる茶色と黒橡(くろつるばみ)といわれる黒茶色が染まり、平安後期以降の黒袍を染めていた。 引用:月刊染織α1986年06月号
昔から樫の樹皮を使い、鉄媒染で黒みがかったねずみ色から黒に、灰汁媒染で茶色を。鉄と灰汁を一緒に使用して、焦げ茶色を染めていたのですね。
樫の木に限らず、その他多くの木の樹皮でも同じように色が出るような気もしますが、樫の木の樹皮だからこそ出てくる色合いというのも、あったのでしょうか。
樫の木といえば、木偏に堅いと書くその字の通り、強度に特徴があるので、少なからずそれが色にも影響があったのかもしれませんね。
ちなみに、木の堅さは材の細胞の大きさや細胞壁の厚さなどによって決まるそうです。
樹皮を使った染色は、木によって染まり上がりの風合いが違うのかどうか、非常に興味が湧きますね。
江戸時代に作り出された絵具である、「花赤」。
今では有馬の辻絵具店だけでしか、製造されていない花赤ですが、作り方を知って大変驚きました。
酸化鉄を水につけ、毎日その上澄み液を捨てる作業を繰り返すこと、約10年かけて「赤花」ができるのです。
正直なところ、機械で作ろうと思えば、それなりに同じようなものは短時間でできるんだと思います。(そもそも機会をつくるコストを考えると、だれもつくる人はいないと思いますが…)
それでも、これだけの時間をかけて、あえてめんどくさいやり方で「赤花」を作っているということに価値があるんだと思います。
理想の色を目指す探究心。ものづくりに対する徹底的なこだわり。そしてなにより、いまでも赤花を作っている人がいるということ。
いつか有馬に行って、実際に見てみたいです。
「赤花」については下記の記事がよくまとまっています。
インドは、ネパールとの国境近くのチャンパーランという土地では、19世紀にはイギリスの資本家が進出して土地を確保し、大規模なインド藍のプランテーション(大農園)をつくりました。
藍の生産をめぐる悲しい歴史が、そこにはありました。
以下、『ガンディー平和を紡ぐ人』からの引用です。
藍プランテーションには残酷な歴史がある。土地を買い取ったイギリス人の農園主は、ティンティア(二十分の三)制度というしくみの下で、農民に藍栽培を強制し、収穫物を安く買いたたき、労働を強制し、地代やその他の代金を支払わせた。
1828年にファリドプル県の司法長官は、農園主に射殺された農民の何人もの遺体を確認し、「イギリスに届けられた箱詰めの藍は、人々の血で必ず汚れている」と報告したほどである。
十九世紀末にドイツ製の化学染料が市場に出されると藍は売れなくなったが、農園主は他の作物への転換を許さず、農民から搾り取ることで自らの収入を補填しようとした。
第一次世界大戦中はドイツからの染料が入手できなくなったため、再びインドの藍への需要が高まり、農園主には好機となったが、戦時の物価高騰を前に、農民の暮らしは厳しさを増すばかりだった。
このような悲惨な1917年にガンディーがチャンパーランの地を訪問し、農民運動を引き起こします。
藍をめぐる歴史のなかでの、悲しい事件の一例ですが、この他にもたくさんの悲劇的な過去があったのでしょう。
どのような流れを経て、染料の今があるのかなど、もっともっと歴史を学ばなければいけないと思います。
すでに亡くなられた方ですが、タイのチェンマイで染色家として活動をしていた、瀧澤久仁子(たきざわくにこ)さんという人がいたという話を聞きました。
タイで古くから行われていた黒檀染め(こくたんぞめ)も、おこなっていたそうです。
滝澤さん、そして黒檀染めについて、詳しくまとまっているサイトがありました。 続きを読む
徳島県では、鎌倉時代から藍作の歴史が始まったとされます。
藍の栽培が盛んになった理由として、大きく三つあります。 続きを読む