藍は、古くから世界各地で使用され、人々に一番愛されてきたともいえる植物染料です。
日本において、藍染された色は一番薄い藍白から、一番濃い留紺まで、「藍四十八色」と呼ばれるほど多くの色味があり、それぞれ名前がつけられていました。
それぞれの藍色に名前をつけて区別をしようと思えるほど、藍色を見る目を昔の人々が持っていたともいえます。
藍色のなかで、平安時代からみられる浅葱色という色名があります。
浅葱色(あさぎいろ)とは?
日本の伝統色とされる数々の色の中でも、藍色、紅色、紫色の3つの色は歴史や色の豊富さなど、日本人にとってとりわけ関わりが深く、日本を代表する色であったといえます。
藍染の青は古くから人々から親しまれ、全国各地に藍染をする紺屋がありました。
明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先の暖簾などを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。
東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けたとされます。
藍染で濃く染めることによって布自体の丈夫さが高くなり、また縁起の良いものとされていたため、古く、武将が好んで濃色に藍染された衣類を着用していました。
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一方、藍染された淡い色も人々には好まれ、京都においては「京の水藍」という言葉が江戸時代の文献に残っており、色合いがあざやかで品質が高かったとされ、水藍の色は京浅葱(淡い水色)とたたえられていました。
「あさぎいろ」は、「浅葱色」や「浅黄色」と書き、本来は薄い黄色のことを表したようですが、後に黄色味を帯びた薄い藍色(水色)を呼ぶようになりました。
浅葱色の歴史
浅葱色という色名は、平安時代の文学作品である『枕草子(995年〜1010年頃)』『源氏物語』(1101年頃成立)』などにもみられます。
また、平安時代にまとめられた三代格式の一つである『延喜式』や平安時代末期から鎌倉時代初期にかけて執筆された、公家九条兼実の日記である『玉葉』などにも記載があります。
浅葱色は江戸時代に流行し、下級武士が着用した羽織の裏地に浅葱で染められた木綿が使われたり、新撰組の有名なダンダラ模様の「羽織」に用いられ、そして何より庶民に多く用いられた色でした。
日本の伝統色の中でも、「浅葱」が付く色名は数多くみられます。
- 薄浅葱・・・浅葱色を薄くしたような淡い青緑色
- 陰浅葱・・・深くて渋い青色
- 錆浅葱・・・ややくすんだ浅い緑青色
- 花浅葱・・・花色がかった浅葱色
- 水浅葱・・・水色がかった浅葱色
- 鴇浅葱・・・やや灰色がかった紅色
ちなみに、英語で浅葱色に近い言葉としては、「turquoise blue(青緑色)」があります。
浅葱色と染め重ね
藍で下染めしてから(藍下)紅花で染め重ねることによって、古くから紫色が染められていました。
平安時代には、藍と紅の二種の藍(染料)で染めた色が「二藍」という色名で表現されていました。
藍染で浅葱色に染めてから、紅花、もしくは蘇芳で染め重ねた色合いを紅藤色と言います。
紅藤色は、その名の通り紅色がかった藤色で、赤みの薄い紫色に用いられます。
江戸時代の書かれた『諸色手染草』(1772年)には、「紅ふじ 下地をうすあさぎ(浅葱)に染。すわう(蘇芳)うすくしてめうばん(明礬)少し入二へん染。とめにむしやしやきのあく(灰汁)にて染てよし。但し本紅を遣ふ時は右のごとく下染の上に紅染のごとく染てよし」というようにあります。