菊(学名クリサンセマム)は、中国原産の植物として、古代中国では不老長寿の薬草として知られていました。
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中国から日本に菊が伝来
中国2世紀頃に書かれた『風俗通』によると、河南省の南陽郡酈山の甘谷というところに菊が多くあり、ここの水を飲むと人々は130歳くらいまで長生きしたので菊花を愛でたとされています。
4世紀ごろに書かれた民話集の『西京雑記』には、重陽の節句に茱萸(グミ)をつけ、草もちを食べ、菊花酒を飲むと長生きすると書かれてあることから、古くからこの習慣があったのです。
中国では古くから菊を尊いものや聖なるものとして、重陽の節句(9月9日)に菊花を浮かべた酒を飲む行事が行われるようになり、菊の花の上に綿をかぶせて香りを移し、その綿でからだを拭くと長生きするという「きせ綿」も行われたといいます。
日本においても奈良時代に菊が移入され、平安時代にはこの重陽の節句の習慣が伝えられ、重陽の宴が開かれました。
人々は、重陽の節句を「菊の節句」として、菊の詩歌や和歌を詠み、菊花を酒に浮かせて飲んだといい、天武天皇の治世下(625年)に初めて「菊花の宴」が開かれました。
12世紀には、後鳥羽天皇が菊紋を好だことから、衣装や刀剣、懐紙などの模様となり、のちの上皇や天皇にも継承され、天皇家の家紋となりました。
以後、天皇家以外では、菊紋を使用することがはばかれ、1869年(明治2年)には、太政官布告で、菊紋を皇室の紋章として天皇家以外が使用するのを禁止にしましたが、戦後、菊紋の禁止は撤廃されています。
菊を愛する趣向は、天上人だけでなく、宮廷や貴族の間でも広がっていました。
中国から伝来した菊花に対する敬愛は、禁裏(天皇)の紋章を頂点とし、貴族社会に普及し、独特な形態を生み出しましたが、やがて一般の武士や町人の間に広まり、菊の節句や菊まつり、菊人形などを作り出し、一般化していきました。
日本のデザインにおける菊
日本のデザインにおいて、菊の模様が現れるのは、平安時代(784年〜1185年)に入ってからのことです。
その多くは、仏教に関連した菊模様で、仏像の光背(仏さまの智慧やご利益を、その背中に光で表したもの)を飾るものとして登場します。
鎌倉時代になると、仏像以外にも菊の模様が使われるようになり、国宝の「籬菊螺鈿蒔絵硯箱」や「北野天満宮縁起絵巻」、春日大社の国宝「赤糸威大鎧(竹虎雀飾)などさまざまなものに菊模様が現れています。
京都生まれの日本画家で、明治から昭和にかけて活躍し木島櫻谷(1877年〜1938年)の『菊花図』は、優れた作品として知られています。
染織模様としての菊
中国では、水辺の菊は神秘的な力をもつものとして、瑞祥(めでたいことが起こるという前兆)の象徴として知られていました。
「菊に流水」(菊水文)として、流水をかたどった模様(流水文)と共に、縁起の良い吉祥文の一つとして人々に愛されきました。
日本にもその慣習が伝わり、鎌倉時代ごろから古鏡や蒔絵、染織品のデザインに用いられていました。
江戸時代に入ると菊水文が大流行し、能装束「唐織 淡茶地流水桐菊桜牡丹丸模様」や「紫縮緬地葵紋付松竹梅菊水模様小袖」などさまざまな名品が作られ、現在にも数多く残っています。
また中国の代表的な詩人であった白楽天(772年〜846年)の詩や故事から籬(竹や柴などで目を粗く編んだ垣根)に菊を添える模様も多く用いられました。
例えば、江戸時代前期ごろに制作された「籬菊模様小袖」などがあります。
さらに中国では、菊は蘭、竹、梅の3種と共に「四君子」(蘭、竹、菊、梅の4種を草木の中の君子として称えた言葉)と称され、竹を荷花(蓮)にかえて、菊・蓮・梅・蘭が「四愛」として親しまれていたことから、日本においても「四君子文」や「四愛文」などとして、江戸時代の小袖などに表現されています。
中国から伝来した菊花模様は、中国の故事に由来する模様として日本で発達し、その後、秋の終わりを飾る名花として、秋草模様の一つとされ、日本独特の風景模様として愛されてきました。
ヨーロッパのデザインにおける菊
古代ギリシャの土器や陶器には菊模様が登場していますが、菊の栽培という実態がなかったので、菊がヨーロッパに現れてくるのは19世紀ごろになってからです。
19世紀の「世紀末」という概念が流行っていたヨーロッパにおいて、菊をモチーフにした染織品などが作られるようになります。
イギリスの工芸家ウィリアム・モリス(1834年〜1896年)は「Daisy(雛菊)」や「Chrysanthemum(菊)」などの作品があり、日本文化への関心も背景にあったと考えられます。
日本人が菊模様をデザインする場合は、菊は歴史的に人々に愛されてきた文脈があるため、文学的だったりある思いが込められている場合も多かったと想像できますが、ヨーロッパにおいてはあくまでも「デザインの対象」としての菊として扱われました。
【参考文献】『月刊染織α1985年11月No.56』