伊勢型紙,絣柄の風合いが出るように彫られたもの

伊勢型紙(いせかたがみ)の彫刻技法と型紙を補強する技術。伊勢型紙の歴史について


伊勢型紙は、三重県鈴鹿市の白子しろこ町と寺家じけ町が名産地です。

全国の呉服問屋ごふくとんやから型紙文様の注文を受けた形屋かたやは、文様の下絵と型を彫る地紙じがみを彫り師に届けて、彫刻してもらいます。

彫られた型紙は、張り屋で紗張しゃばりをされて完成し、その後形屋かたやから問屋、そして型付け職人に届けられたのです。

伊勢型紙の彫刻技法

型紙の彫刻技法ちょうこくぎほうは、「きり彫り」、「小刀こがたな彫り」、「道具彫り」の3種類に大きく分けられます。

これをさらに細分化すると、小刀こがたな彫りには、つき彫り、引き彫り(しま彫り)があります。

型紙の彫刻は、一彫ひとほりと言って7〜8枚の地紙じがみを重ねて彫るのが一般的です。

型紙に用いる紙

型紙を彫る地紙じがみは、従来、こうぞの木の皮である楮皮ちょひの手すき和紙を3枚重ね、柿渋かきしぶで張り合わせて作られました。

こうぞは高知県のものが木目もくめが密で良いとされ、手すき和紙は岐阜県の美濃和紙みのわしが用いられました。

柿渋かきしぶは、長野県の信濃柿しなのがき醸造じょうぞうし、3〜5年寝かせたものが良質とされました。

地紙じがみ製造の流れとしては、柿渋を用いて、2枚か3枚を交互に貼り合わせて檜製ひのきせいの長板に張り、天日乾燥します。

これを密閉した部屋に入れ、おがくずの煙で10日間ほどいぶします。

部屋から取り出し、もう一度紙に柿渋を塗り、天日乾燥して再び部屋にいれ、10日間ほどいぶします。

これを部屋から取り出し、汚れを取り除き、約半年ほど寝かせて出来上がりました。

錐彫り(きりぼり)

きり彫りとは、型紙の彫刻技法のなかでは最も古くから伝えられている技法で、地紙じがみに円形の穴を連続して文様を掘り上げます。

細かい文様を彫るもので、半円形の小さいきりを用いて柄を彫っていきます。

きり彫りを代表する文様としては、「きり小紋の三役」と呼ばれる「鮫小紋さめこもん」、「行儀ぎょうぎ」、「通し小紋」のほか、亀甲きっこう七宝しっぽうなどが挙げられます。

きり彫りの彫刻刀は、丸の大きさがさまざまです。

彫りあがった型紙は、白目しろめ黒目くろめに分けられます。

白目しろめは、錐穴きりあながムラなく掘られて型紙が白くみえることその名前があり、彫るのも難しいですが、染めるのにも高度な技術が要求されます。

道具彫り

道具彫りは、「ゴットリ」とも呼ばれ、道具彫りで地紙じがみを掘り抜いて出るくずを「ゴットリ」や「メクソ」と呼んだことからきています。

角通し、うろこ、小花など、文様の形に作られた彫刻刀で、型紙を垂直に掘り抜く技法です。

道具彫りは、桜や菊の花びら、三角や四角などの文様を一単位と考えます。

このため、型紙を彫る前に、道具彫りに必要な彫刻刀の刃の形を制作する必要がありました。

道具彫りの彫刻刀は、「ニオイ」と「カサ」と呼ばれる2つの刃を組み合わせて作られます。

道具彫りは、文様の単位数だけ道具をそろえないといけなかったことから、道具彫り職人は、道具作りが最も重要な仕事ともいえ、道具の数は、職人の型彫り経験の深さを物語っていました。

経験の多い職人だと、3,000本もの彫刻刀を保有していたようです。

引彫り(縞彫り)

引彫ひきぼりは、定規じょうぎを型紙に当てながら、千筋せんすじ万筋まんすじのような極めて細い縞を、小刀を手前に引いて彫りあげる技法です。

引彫りは、筋や縞文様を彫るために開発された技法で、2種類の方法があります。

一つは、一丁の小刀で一本ずつ線を彫る方法で、もう一つは刃を二本平行に組んで一度に二本の線を彫る二丁引の方法があります。

縞を彫るにはあらかじめ地紙に縞文様の幅に合わせてしるし(印はほしと称した)を入れて、印に定規を合わせて、右側から順に引彫りしていきます。

引彫りは、一息で引き切るのが重要です。

曲線文様は、地紙を彫刻刀で引き破る可能性があるため、筋の中間部分にりを彫り残して三段に分けて彫ります。

そして、型紙の文様がずれないように絹糸で補強する「糸入れ」の作業を行い、彫り終えた型紙はりを切り落として完成します。

突彫り(つぎぼり)

突彫つきぼりは、絵模様を彫る技術です。

小刀の刃先に左手の人差し指の爪を当てて掘り進める方向を定め、右手で彫刻刀を上下させて突き切って刻んでいきます。

突彫つきぼりでは、「矢羽根やばね」や「よろけじま」などの文様を彫るのに用いられました

突彫つきぼは、て場という机の上に、敷板しきいたを置き、この上で数枚の地紙を重ねて彫ります。

伊勢型紙を補強する技術

縞柄や白場が少なくなる地白文様の型紙の場合、地紙のつなぎが不安定なので、型付けの際に文様がずれてしまうことがありました。

型紙を補強する場合、「糸入れ」と「紗張しゃばりり」が用いられていましたが、現在では紗張しゃばりりの技法がもっぱら用いられています。

糸入れ

糸入れを必要とする文様は、あらかじめ糸入れ用の特殊な地紙に彫りました。

糸入れ用の地紙は、薄い上紙うわがみと厚い台紙だいしが張り合わせてあり、彫り師は文様がくずれないようにりを残しながら型紙を彫りあげます。

その後、上紙うわがみ台紙だいしをはがして糸を挟み込み文様を固定し、後に彫り残した吊りを切り落として仕上げました。

糸入れする場合には、絹糸を糸掛枠の竹釘に、型紙の文様に応じて糸を掛けておき、ゲス板という底板にゲス紙を敷いた上に台紙を張り、これに柿渋を塗り、さらに糸掛した枠を乗せて、再び柿渋を塗ります。

この後、上紙の文様がくずれない様に張り合わせ、絹糸と地紙文様の間にたまった柿渋のカスを息で吹き飛ばし、和紙で裏付けして枠と一緒に乾燥させるとできあがりです。

紗張り

紗張しゃばりりは、型紙を補強する技法で「糸入れ」に変わる大きな発明でした。

昭和54年(1979年)、三重県の『伊勢型紙業界産地診断報告書』によると、「紗張しゃばりりの技術は、大正10年(1921年)に富山県高岡市の染色業者であった井波義兵衛氏の発案、特許によるものとされ、白子地区では昭和2年〜3年(1927年〜1928年)ごろから取り入れられ急速に広まっていきました。

当初は紗張しゃばりりに証書を貼る必要があったようでしたが、昭和5年(1930年)頃には、自由に紗張しゃばりりを行っていたようです。

紗張しゃばりりの普及は「糸入れ」以外にも、追掛型おっかけがたにも影響しています。

追掛型おっかけがたは、二枚型にまいがたとも呼ばれ、複雑な文様を一枚の型紙で彫り表すことができない場合に、二枚に分けて彫ることを表します。

紗張しゃばりりの技法によって、追掛型おっかけがたを作る必要がなくなったのです。

紗張しゃばりりは、型紙の補強技術として手頃なうえ、従来の糸入れよりも手間がかからないため、急速に普及していき、紗張りを専門に仕事をする「張り屋」も生まれました。

追掛型おっかけがたの注文が減ったことで、地紙の消費量もその分減ったのです。

伊勢型紙の歴史

伊勢型紙とは、三重県鈴鹿市の白子しろこ町と寺家じけ町を中心に生産され、古くから小紋型や友禅型、手拭い型などが製作されていましたが、江戸時代に、紀州徳川藩の保護のもとに大きく発展しました。

型紙に用いる和紙や染色の産地からも離れたこの地で、なぜ型紙が生産されるようになったのか、その起源は定かではありません。

白子しろこに残る文献によると、文禄ぶんろく4年(1595年)には、すでに120軒の型紙を売る型屋があったと記されています。

白子しろこの型紙が発展し、独占的に国内市場を占めることができたのは、なんといっても紀州藩きしゅうはんの保護政策があったからです。

特権を与えられた伊勢型紙も、明治維新を迎え、藩の保護を失って大きな打撃を受けました。

その後、第二次世界大戦を経て大きく衰退しましたが、戦後、再興され、昭和27年(1952年)には国の重要無形文化財に指定されました。

さらに、昭和30年(1955年)には、「錐彫きりぼり」、「引彫ひきぼり」、「突彫つきぼり」、「道具彫どうぐほり」、「糸入れ」の5部門が技術指定を受け、6名の人が技術保持者(人間国宝)に指定されました。

【参考文献】『埼玉県民俗工芸調査報告書 第1集 長板中型』


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