長板中形は、小紋や形友禅などと同じく、日本に古くからある型染めの一種です。
長さが3間半(約6m36cm)、幅が約46cm、厚さが約2cmの一枚板である「長板」に生地を広げ、中形と呼ばれる、大紋と小紋の中間ぐらい柄の大きさに彫られた型紙を使用して型付けを行うため、「長板中形」という名前があります。
長板中形(ながいたちゅうがた)とは?
階級制度の厳しい封建社会のため、庶民は武士の目を意識して、大紋と小紋の中間の型を使用して、木綿の着物を染めたのが長板中形の始まりと考えられます。
長板中形の技術は、江戸時代中頃から浴衣地の型付け・藍染に多用されたため、中形といえば浴衣の代名詞のようになっていました。
現在の埼玉県にあたる地域で「長板中形」が盛んであった理由として、中川・綾瀬川などの水量の豊富な河川に恵まれていたことに加えて、何より大消費地であった江戸、東京の隣接地であったことが挙げられます。
江戸の需要に応える形で、多くの人々が型付け職人として仕事に従事していました。
目次
長板中形(ながいたちゅうがた)の特徴
長板中形は、生地の表裏を糊で防染するため、白と藍のコントラストが鮮やかです。
全て手仕事であるため、機械的なものには見られない味がある点も魅力です。
他の小紋や友禅では、染料を刷毛で塗っていくため、片面の糊置きだけでも問題ありません。
一方、長板中形の場合は、藍の液で浸け染めしなければならないため、片面だけでは、生地がよほど薄い場合を除いて、裏から染料がまわって白場がにごってしまいます。
長板中形の藍色一色のきっぱりした美しさは、江戸っ子の好みに合う「粋なもの」として愛されました。
長板中形の技法と工程
浴衣に使用される生地には、栃木県真岡地方で織られた上質な真岡木綿(岡と言われた)が一般的に使用され、しぼのある綿縮生地が用いられることもありました。
長板の上には、あらかじめ薄く姫糊(お米をやわらかく煮て作った糊)を引いて乾かして、布を板に張る際に糊を湿らさて接着させます。
これを地張りや下張りと言いましたが、この作業の良し悪しで、型付けの出来不出来が決まるともいわれました。
板に張る際の注意点としては、しわが寄らないのは大前提として、生地が平らにまっすぐに張る必要があります。
平らにするために、生地の上をかたい木の棒でこすっていった作業を「地ばい」といったようです。
型紙は、傷つけないように大事に扱い、使用する前には水につけてやわらかくしておき、使用中でも無理な使い方はしません。
柿渋を塗り直して、場合によっては補強もします。
長板中形に使用する糊
もち米と米ぬかを主成分として、これに塩や消石灰を混ぜた糊を使用します。
すり鉢に石灰と水を入れ、その中に米ぬかを入れてよく練ります。練ったものに、もち粉(もち米の粉)を加えてよく混ぜれば、防染糊の完成です。
作り方は、糊を煮る具合や、材料を混ぜる分量などは経験が必要で、それぞれの職人のくせや好み、型紙の種類や難しさ、天候などによって変化していたのです。
「一糊、二腕」といわれていたほど、糊の良し悪しが型付けの結果を左右するほどのものでした。
「ヘラ道3年、ノリ10年」という言葉もあったようですが、一通りのヘラ使いを覚えるのに3年かかるのに対して、ノリは10年もかかるというくらいノリ作りは難しく、経験が必要だということを物語っています。
糊ができたら、最後に赤い色素(別の色でも良い)を混ぜて色をつけることで、裏から型をおく場合に、表に置いた型が透けて見やすくなります。
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型付け作業
生地、型紙、糊の準備ができて型付けの作業に入ります。
一型ずつ糊をつけては型を送っていきますが、ゆっくりと糊つけをしていると、糊が乾燥してきてしまうため、スムーズに作業を行なっていきます。
型紙によっては、型紙の端に型を送る時に合わせやすいように、小さな星型(送り星)が掘られている場合があるので、これを目印にします。
最初の型紙の置き方がゆがんでいたり、生地が平らに張られていなかったら、だんだんと型を送っているうちに、生地から柄がずれてしまうことがあります。
型紙が糊で汚れてきたらその都度洗ったり、型紙が乾いてしまうと柄がずれる原因にもなるので、型紙は常に湿気を持たせておきます。
特に難しい柄いきが、縞ものです。
縞ものは、型紙の細い線をつなげた長い縞が一直線に通るようにしなければならず、横縞や斜縞は間隔が少し狂うだけでも不上りになってしまいます。
表面(表型)の糊つけが終わり、糊が乾燥したら、裏返しに長板に張って、型紙も裏返し、表面(表型)の赤い糊を目印にして、柄がピッタリ合うように糊付けをしていきます。
裏面(裏型)の糊付けのために、もう一枚型紙を準備する場合もあったようです。
一枚の型紙だけでは表現するのが難しい文様は、複数の型紙を用いて染め場合があり、「追っかけ」などと呼ばれていました。
この追っかけの場合、最低でも両面で4回糊を置かなくてなならず、非常に手間がかかる作業でした。
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染色作業
染色の前に、生地染め付けを良くし、糊の強度を高めるために、型付けした生地に大豆をくだいて水で溶いた豆汁を塗る場合もあります。
表裏に糊をつけ終わった生地はよく乾かしてから、生地を伸子に張り、染色の作業に入ります。
1反に伸子をかけるのは、15本前後になります。
糊が良くても染めが下手であれば、不上りになってしまいます。
藍染は何回も液につけて空気で酸化させてを繰り返して、色を濃くしていくため、型付けが一見きれいにできていても、糊の加減が悪いと、糊が溶けて流れてしまったり、割れて染料がにじみ、いわゆる「泣き」と呼ばれる状態になってしまいます。
糊が良くても、染めで失敗して染めむらができてしまう場合ももちろんあります。
染め上がったものは、最後に水洗いをして、藍と白の浴衣地ができるのです。
昔は、型付け専門の職人と、染め専門の職人との分業がしっかりしていたので、一枚の不上りを中心にして、いわゆる張場(型付け専門の職人)と甕場(藍染職人)がいがみあっていたのは、昔からよくあることだったようです。
一方、両者が張り合って腕を磨くことで、技術の向上に励むという職人らしい伝統が保たれてきた側面もあったのです。
長板中形は高度な技術を必要とするので、一通り作業を覚えて「一人前」の仕事ができるようになるまでに、最低5〜6年は要すると言われ、一人前の仕事内容に定義はありませんが、本当に「一人前」と思えるには20年ほどかかるとも言われていたようです。
ある程度高度な技術を持って仕事ができる職人として、型屋であれば1日6〜10反の型付け、紺屋であれば、10〜15反ぐらい染められないと職人として一人前と認められず、仕上がりがきれいで、数をあげるほど良い職人として扱われたようです。
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長板中形と天気
長板中形の仕事は、天気に大きく左右され、品物の良し悪しは天気によって決まるとも言われました。
型付けにおいては、湿度や乾燥具合に気を使う必要があり、特に糊を多く使用する地白のものは、天気が良い日でないと型付けできませんでした。
理由としては、天気が悪くて糊の乾きが遅いと、糊の厚みが減って薄くなるので、藍で染めたときに中に染み込んでしまう可能性が高くなるためです。
糊は天日による自然乾燥が一番良く、少しでも早く乾燥したほうが良いとされますが、あまりに急に乾燥させるとひび割れが起こる可能性もあります。
季節としては、気温が暑いと不都合なことが多く、冬場が最も長板中形の仕事に適した時期です。
暑いと型付けで最も重要な糊がすぐに腐敗して、糊に入っている石灰の効果が薄れてしまって防染の効果がなくなってしまう可能性があります。
藍染の場合も、冬場が型付けされた糊も腐りにくく、もっとも仕事に適した時期でした。
夏場は藍が暑さで温まると生地についた糊がだれてしまい、防染の効果が薄れてしまうといった可能性があり、気温の高い夏場は、早朝の気温の上がらない時に染めていたようです。
長板中形の歴史
日本における型紙による模様染めは、沖縄で行われた紅型が最も古いとされています。
紅型は、15世紀中期ごろ、中国の王朝である明から伝わったものとされ、日本で型染めが行われるようになってのも、室町時代で明との交流によるものと思われます。
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小紋染めの発達
型紙を使っての小紋染めの起源ははっきりとしていませんが、型染めの様子を示す資料としては、埼玉県川越市にある喜多院に所蔵されている「職人尽絵屏風」が知られており、型置きをしている職人が描かれています。
上記の絵画は、狩野吉信(1552年〜1640年)に描かれたものであると判明しており、1615年頃に描かれたものではないかと考えられているため、この頃にはすでに防染糊を置く型置き師という仕事が一般的であったことが推測できます。
京都で友禅が流行していた元禄(1688年〜1704年)から享保(1716年〜1736年)にかけて、江戸では型紙を用いて染める小紋が完成し、「京の友禅、江戸の小紋」と言われるようにもなります。
小紋は、もともと室町時代に武士の裃に家紋を染めることから始まったと言われますが、裃の型染めとして著しく発展したのは江戸時代になってからです。
江戸時代に礼服や公服に使用されたものは、素材は麻で単の着物で、背中と両前に家紋をつけました。
そのほかの部分を細かい模様で埋めるようになり、この模様染めが小紋だったのです。
寛永12年(1635年)に、新しく武家諸法度が定められ、参勤交代が義務付けられたことで、他藩の武士とも接するため、礼服にも気をつかうようになったと考えられます。
武士の町である江戸では、参勤交代で江戸詰(江戸に留まって勤務する)する武士が大勢いたため、小紋染めの需要が多く、小紋染めの優秀な職人が江戸に集中しました。
結果として、小紋染めが発達したのは、江戸幕府の基礎が定まった三代将軍の徳川家光の寛永時代(1624年〜1643年)と考えられています。
小紋染めが武家以外の人に着られ始めたのは、その後に江戸の新興商人が経済力を持つようになって、裃の小紋柄には見られない、新しい柄を羽織や着物に染め出してからであるといわれます。
こうして、江戸時代末期以降、高度な型染めが江戸で行われるようになり、小紋のような細かい柄を「江戸前」と呼ぶようになりました。
このような小紋染めに対して「江戸小紋」と呼ぶようになったのは、時代が下って昭和30年に文化財保護委員会が、小宮康助氏を重要無形文化財技術保持者に指定する際につけた名称からです。
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長板中形の発達
長板中形は、江戸時代中期から行われ、貞享年間(1684年〜1688年)に、井原西鶴によって書かれた小説の一種である浮世草子作品、「好色一代女」にも登場しています。
長板中形は、江戸で生まれて江戸で発展し、浴衣という最も庶民的な衣服として長く人々に親しまれてきたものでした。
江戸で長板中形が盛んになった理由の一つとして、当時、江戸には小紋染めの優れた職人が大勢いたことも大きな要因になっています。
中形は、小紋よりも後に江戸で発達していき、その発展時期は、18世紀後半の明和年間(1764年〜1771年)頃と考えられています。
小紋染めの職人たちは、夏になると仕事が減って暇になったようで、夏場の暇な時に中形を染めたといわれ、当初は小紋と中形の型付けは兼業で行われていたようです。
技法的には、長板を用いて型付け据える点で、小紋染めと共通しています。
一方、大きく違う点は、小紋は表面(片面)だけの糊置きであるのに対して、中形は、単衣で着るため、表裏の両面を型付けして同じ柄でピッタリと合わせる必要があります。
そのため、比較的細かい柄になると、中形の方が高度な技術を必要になる場合も多々あり、後に中形専門の型付師が生まれたのです。
明治維新で武士が消滅し、裃が廃止されたことで、それまで裃の小紋を染めていた職人の多くは、中形の型付けに移行していきます。
ただ、明治時代になっても一般の人が昼間に浴衣を着て外出する習慣はなく、浴衣は風呂上がりの夕方に着るものと考えられていました。
夏の簡易的な外出着として着用するようになってのは、明治30年頃(1897年)と言われています。
浴衣が外出着としての地位を得たことで、綿縮や綿絽、綿紅梅、などの高級な生地も使われるようになり、湯上がりに着る浴衣と違って柄も大きく、多様なものも生まれ、長板中形の全盛期を迎えたのです。
日露戦争後の明治40年頃(1907年)で、中形の問屋が130軒ほどあり、中形の業者が東京で230軒、埼玉で100軒ほどあったのです。
ただ、浴衣が庶民的であるが故の低価格と、手間のかかる伝統技術によって制作費がかさむことの板挟みにあい、長板中形に従事している職人は今日ではほとんどいなくなってしまいました。
昭和30年(1955年)に、長板中形の技術保持者として、松原定吉氏、清水幸太郎氏が、国の重要無形文化財、いわゆる人間国宝に指定されました。
令和5年(2023年)、松原定吉氏の孫で、父親の松原利男氏
の元で長板中形や藍形染めを学んだ松原伸生氏が人間国宝に認定されました。
松原伸生氏は、現在、千葉県君津市にある工房で、仕事をされています。
長板中形は、技術的には多くの伝統工芸のなかでも、純粋に昔ながらの姿を残しています。
注染(ちゅうせん)の誕生
大正時代から昭和にかけて、手拭中形(手注)や注染という方法が始まり、浴衣が大量生産されるようになりました。
生地を手拭いの長さくらいにジグザグ折りたたみながら、そのあいだに型で糊を置いていき、生地と糊がサンドウィッチのように一つおきに層をなして重なる形にします。
上から染料を注いで、圧縮空気で下まで一気に通して染めていくのです。
注染であれば、1日で100反は仕上げられるほど生産性があり、2色以上使ったり多様な染めができることから、長板中形に変わって浴衣染めの主流となります。
注染の技法の登場により、昔からあった中形染のことは、長板を用いた中形染め、つまり長板中形のことを意味するようになったのです。
【参考文献】
- 『長板中形 第一回文化財探訪』
- 『埼玉県民俗工芸調査報告書 第1集 長板中形』