木綿の原種に近いものとして、茶綿(ちゃめん)と呼ばれる品種があります。 続きを読む

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木綿の原産地は、インドと言われています。
インドのパンジャブ地方は、古くから織物の技術の世界的な源であり、ヒマラヤを源流としインド洋に注ぐインダス川流域の文化とともに世界中へ広がっていきました。
紀元前1世紀頃の古代ローマでは、人々はすでに綿の布を身にまとっていたようです。
日本に木綿が入ってきたのは1200年ごろの鎌倉時代初期、中国から綿が持ち込まれており、その後に種子が伝わり、三河や遠江、大和、摂津、河内、和泉などが産地となりました。
17世紀前半ごろの江戸時代の早い時期には、幕府が栽培を問題視しなくてはならないくらいには、木綿栽培が全国各地で広がっていたのではないかと考えれています。
木綿が大陸から入ってくる以前は、麻が庶民の日常着でしたが、木綿の経済性や機能性の良さによって、江戸時代には木綿が庶民の日常着になっていくのです。
その後、明治時代の産業の近代化の波に飲まれ、国内の綿栽培は急速に衰退していきます。
綿を巡る歴史は、世界中数え切れないほどありますが、西インド諸島で栽培されていたシーアイランド・コットン(海島綿)とコロンブスの話があります。 続きを読む
インドにおけるキャラコ(calico)と呼ばれた平織りの綿織物が、17世紀終わり頃からヨーロッパに伝わり、人々を魅了しました。
キャラコは、カーテンやシーツ、そして肌着等にも適していました。
もともと、ヨーロッパには綿花の栽培と綿工業がなかったため、インドからやってきた綿織物が、人気を博すのは必然でした。
人々に愛されたキャラコですが、歴史をたどってみると、イギリスの産業革命とその背景にあった悲しい歴史がみえてきます。
更紗の断片 (インド)、18 世紀後半,Cooper Hewitt, Smithsonian Design Museum, Public domain, via Wikimedia Commons,Link
明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先の暖簾などを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。
東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と表現したとされます。
日本中の庶民にとって大切にされてきた、藍染の衣類。
藍染が日本に広がった理由として、木綿との非常に密接な関係がありました。 続きを読む
木綿(cotton)は、16世紀には日本国内での栽培が広まっていき、17世紀初頭ごろには飛躍的に発展していきました。
木綿は庶民の日常的な衣服となり、江戸時代の経済と政治において、一貫して重要な役割を果たしていました。
しかし、明治維新を経て、殖産興業政策のもとで、決定的な打撃を受けることになります。
殖産興業政策とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進したさまざまな政策のことを指します。
明治政府は、産業の近代化を「輸出振興」「輸入防遏」という国家のスローガンを掲げ、輸出輸入の両面から綿業は、中核的戦略産業として位置づけられました。
外国の質の高い綿糸や綿布に負けないように、綿業の近代化は国家的な課題とされていたのです。 続きを読む
ウールやシルクなどの動物性の繊維であれば、比較的かんたんに染められますが、木綿を草木染めする場合は非常に難しいです。
草木を煮出して染め液を抽出しない藍染であれば、木綿との相性が良いのでよく染まりますが、いわゆる草木染めのなかでは特殊な例となっています。
一般的な煮出して染めるような草木染めは植物性の繊維に染まりづらいので、木綿や麻などの植物性の繊維を染めるためには特殊な下処理が必要です。
木綿を草木染めで染色する場合、例外的に絹よりよく染まることもありますが、基本的には絹に比べて染まりが悪く、染まったとしても淡くしか染まりません。 続きを読む
綿花はアオイ科のワタ属・ゴシピウム属に入り、20種類ほどの品種が残っています。 続きを読む
今では伝説として語り継がれていますが、現在のバングラデシュの首都ダッカでは、高度な技術によってつくられたダッカ・モスリンという伝説の綿織物がありました。
現存するものは、ロンドンのヴィクトリア・アルバート博物館で保存されているようです。
バングラディッシュは、インドから独立した国なので、イギリスが植民地統治をしている以前は、インドの綿業の中心地であり、その生産量や染色技術においてももっとも世界で進んでいたと言われます。
当時はもちろん機械がなく手工業だったので、糸は手紡ぎされていましたが、その糸が非常に細く、それを使用して非常に薄い綿織物を織っていました。
インドで手紡ぎをイメージすると、ガンジーが糸車を回している有名な写真を思い起こしますが、当時細い糸を紡ぐときも、早朝に霧の立ち込める川のほとりで糸車を回し、指先に油をつけながら紡いだといわれています。
早朝の霧、そして川の近くで湿気の多い場所が、糸を紡ぐのに適していたのです。 続きを読む