インドの綿織物であるキャラコ(calico)とは。ヨーロッパを魅了したキャラコと産業革命との深い繋がり


インドにおけるキャラコ(calico)と呼ばれた平織りの綿織物が、17世紀終わり頃からヨーロッパに伝わり、人々を魅了しました。

キャラコは、カーテンやシーツ、そして肌着等にも適していました。

もともと、ヨーロッパには綿花の栽培と綿工業がなかったため、インドからやってきた綿織物が、人気を博すのは必然でした。

人々に愛されたキャラコですが、歴史をたどってみると、イギリスの産業革命とその背景にあった悲しい歴史がみえてきます。

更紗の断片 (インド)、18 世紀後半,,Chintz Fragments (India), late 18th century (CH 18481741)

更紗の断片 (インド)、18 世紀後半,Cooper Hewitt, Smithsonian Design Museum, Public domain, via Wikimedia Commons,Link

キャラコ(calico)とは?

キャラコ(calico)は、キャラコとも書き、金巾かなきんまたはそれに関連した織物をさらしてのり付けた平織りの綿織物を言います

インド西南部の港市こうしであるカリカットcalicut(現在のコージコードKozhikode)から主に輸入されていたことから、「キャラコ」や「キャラコ」と呼ばれるようになり、素材的には日本でいう金巾かなきんに近く、平織りで織られ、軽くてしなやかさがあるのが特徴的でした。

カリカットcalicut(現在のコージコードKozhikode)には、8世紀以来アラビア商人が進出していましたが、1498年、ポルトガルの「バスコダガマvasco da gama(1469年〜1524年)が到達し、現地人との戦いの後、1503年に拠点を建設しました。

それ以後、ヨーロッパへの窓口として栄え、イギリスがだんだんと支配を強めていきます。

カリカットから輸出されたインドの綿織物は、「カリカットクロス(calicut cloth)」や「キャラコクロス(calico cloth)」と呼ばれました。

イギリスでは、インドで生産される「キャラコ」や「モスリン」などの輸出織物を珍重してきましたが、産業革命の成果である紡績ぼうせき工業(繊維から糸を紡ぐ工業)の発展によって、自国でも似たものを大量に生産するようになったのです。

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ヨーロッパ人を魅了したキャラコ(calico)

ヨーロッパには、イギリスを代表とする羊毛工業で栄えた国が数多くあります。

「羊が人を食う」といったエンクロージャー運動が起こったことを、歴史の教科書で学んだのを覚えている方もいると思います。

毛糸を編んだり織ったりして衣類をつくったので、毛織物がヨーロッパ人にとっては慣れ親しんだ衣類だったのです。

麻のような、植物性繊維もなくはありませんでしたが、綿は特に、ヨーロッパのような寒い地域では栽培できなかったので、ヨーロッパ人には馴染みがなかったのです。

だからこそ、インドから質の高い綿織物が伝わってきたのが、ヨーロッパ人にとっては大きな出来事だったのです。角山栄(著)『産業革命の偶像』には、以下のような記述があります。

イギリスの東インド会社がインドから輸入した美しくて、はだざわりのよいキャリコはヨーロッパ人を魅了した。女性はたちまちドレスにもってこいだとしてざわついた。部屋のカーテンにもうってつけだったし、白い綿布はベットのシーツやカバーにもなるし、肌着にしてもよかった。その上、インドの低賃金でできたから、値段も安く、大衆の間にしだいに広がり始めた。角山栄(著)『産業革命の偶像』

綿織物の幅広い用途と使いやすさに、当時の人々はさぞかし驚いていたのでしょう。

キャラコと産業革命との深い繋がり

瞬く間にヨーロッパの大衆に広がっていたインドの綿織物でしたが、国内業者にとっては大打撃です。

国内業者からの抗議の結果、イギリスでは東インド会社が運んでくるキャラコの使用が禁止されることになりました。

イギリスではキャラコの国内輸入は禁止されていたものの、それを横流しして、他国に販売していました。

その当時、奴隷貿易が盛んに行われていたので、キャラコとアフリカ大陸の人々が「交換」されていたのです。

ジュリアス・レスター(著)『奴隷とは』には、以下のようなエピソードがあります。

「アフリカでは、こぎれいなものといってはほとんどなかったし、それに赤い色の布は全然なかったんだよ。じっさい、布なんかまったくなかったんです。ある日のこと、青白い顔をした見知らぬ人たちが何人かやってきて、赤いフランネルのちいさな切れっぱしを、地面に落っことしたんです。

黒人たちはだれもかもが、その切れっぱしを取りあいました。つぎには、もっと大きな切れっぱしが、もうすこしさきのほうで落とされました。で、こんなふうにして、とうとう川のところまでやってきたんです。するとこんどは、大きな切れっぱしが川の中とその川の向こう岸に落とされました。

落とされるたびにその布切れを拾おうとしながら、みんなはだんだんとさきのほうへ誘われていったのです。とうとう船のところにまでたどり着いたあとき、おおきな切れっぱしが、舷側から突き出した板のうえと、もっと先の船のなかに落とされました。

こんなぐあいにしてついに、おおぜいの黒人たちが、積めるだけその船に積みこまれました。すると、船の門が鎖をかけて閉められ、もう誰ももどれなくなってしまいました。ジュリアス・レスター(著)『奴隷とは』

タバコ、銃、砂糖、酒、そして綿布をアフリカへ送り奴隷を手に入れ、その奴隷を西インド諸島の植民地に労働者として送り、奴隷によって生産された物資が、イギリスにもどってくる。

三角貿易と言われたこの物資の流れに、インドのキャラコも含まれていたのです。

イギリスの産業革命が綿工業から始まった理由

イギリスの産業革命は、綿工業から始まったといわれます。

もともとイギリスで綿工業が盛んで、機械が導入されたことによって生産性が急上昇したという簡単な話ではありません。

背景にはインドの綿織物の貿易がきっかけとなり、植民地での綿花栽培、そして国内需要に答えるための結果としての大きな技術革新があったのです。

産業革命を経過したイギリスの綿織物工業は、インドの綿製品をモデルとして飛躍的に発展し、かえってインド市場へと輸出するようになります。

18世紀末から19世紀初めにかけて、インドへの輸出は約10年間の間に10数倍にも増加しました。

1828年には、4282万反もの綿織物がインドへ輸出されるようになります。

インドの綿産業における悲しい歴史

イギリスの綿工業が始まった、18世紀初め頃、その最大の競合はいわずもがなインドの綿工業でした。

植民地で栽培された原綿を使って、イギリスで作った綿布ですが、キャラコのような美しくて、値段の安いものを作らなければ勝つことができません。

そこで、インド市場に入り込むためにもイギリスがしたのは、インドからの輸入阻止や高い関税を課すこと、そしてインド人職人の技術をこの世から奪い去ることでした。

インドの主権は、1765年以来、イギリス東インド会社に移りましたが、1858年からはインド政府はイギリスの政府のもとに置かれ、名実ともにインドはイギリスの植民地となります。

インドの染織品における経済は、イギリスの産業政策の一環として運営され、その結果、インドで生産されてきた古来の伝統的な手工業による精巧な染織品は姿を消し、インドはイギリスへ原料となる綿を供給し、イギリスの綿製品を消費する市場となったのです。

以上を簡単にまとめると、以下のような流れとなります。

  1. 東インド会社がキャラコ(calico)をイギリスに輸入
  2. イギリスの羊毛産業が綿需要に圧されピンチに
  3. イギリス国内におけるキャラコの販売禁止
  4. インドで作られた綿生地で、奴隷貿易
  5. インドの綿花を輸入し、イギリス国内で加工
  6. イギリス国内の綿需要が飽和
  7. インドで木綿製品を売りたいが、クオリティーや価格で負けてしまう
  8. 関税を高く設定したり、インド人職人の技術をこの世から奪い去ることでイギリス産の綿製品の優位性を保ち、インドの綿市場を取りにいった

キャラコという美しい綿織物がありましたが、それをめぐる出来事にはさまざまな悲しい過去があったのです。

1947年、第二次世界大戦の結果、インドはイギリスからの独立を達成して以降は、インドの染織技術は機械化・工業化が進んでいきましたが、手仕事による染織品の生産は近代化の流れとともに衰えていきました。

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【参考文献】

  1. 角山栄(著)『産業革命の偶像
  2. ジュリアス・レスター(著)『奴隷とは

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