和綿が衰退した歴史。産業の近代化の波に飲まれ、輸入綿を原料に、和綿が切り捨てられる。


木綿は、16世紀には国内での栽培が広まり出し、17世紀初頭ごろには飛躍的に発展していきました。

庶民の日常的な衣服となり、江戸時代の経済と政治において、一貫して重要な役割を果たしていました。しかし、明治維新を経て、殖産興業政策のもとで、決定的な打撃を受けることになります。

殖産興業政策とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進したさまざまな政策のことを指します。

明治政府は、産業の近代化を「輸出振興」「輸入防遏(ぼうあつ)」という国家のスローガンを掲げ、輸出輸入の両面から綿業は、中核的戦略産業として位置づけられました。

外国の質の高い綿糸・綿布が国内に入ってこないように、綿業の近代化は国家的な課題とされていたのです。

イギリスの紡績機械と工場生産を導入するも大きな壁が

明治政府は当初、国内の木綿を原料に、産業革命をいち早く達成したイギリスの綿糸紡績機械と工場生産を導入して、課題を乗り越えようと試みました。

しかし、イギリスで使用されていた綿の種類と日本の和綿の特徴の違いから、官営工場として成果をあげられないまま、民間に払い下げられます。

中国、朝鮮から日本にきた綿はデシ綿と呼ばれ、繊維が太くて短く、ふとんや脱脂綿等には適していましたが、機械紡績には繊維が合わなかったのです。

関連記事:繊維をつくる綿花4種類。約9割が、アメリカで進化したヒルスツムのアプランド綿。

輸入綿を原料に、和綿を切り捨てる

綿業の近代化の担い手となった資本家たちは、方針を転換し、インドや中国の輸入綿を原料に、国産の和綿を切り捨てる方針を選択しました。

それから、約10年に渡って、国内の綿生産者と資本家の争いがくりひろげられ、当時開設された帝国議会が議論の舞台となったのです。

結果として、1896年に、議会は綿花輸入関税の撤廃を議決し、綿作農民は敗れました。これを転機に、国内の綿作は数年足らずで消滅したそうです。

かつて農民の手に、日本の経済史上はじめてといっていいほど利益をもたらし、人々に上昇の夢を与えた綿業の歴史はここに幕を閉じたのです。

その後、資本主義的綿業が軌道に乗り、「輸入防遏」を達成したばかりか、中国・朝鮮に輸出するまで発展したのです。

当時、機械で織られた安価な布によって、稲作だけに従事せざるえなくなった綿業従事者は何を思ったでしょうか。

いつの世も、時代の流れには逆らえません。当時の人々に思いを馳せながら、今私たちがどう生きるべきかなど、考えさせられます。

参考文献:苧麻・絹・木綿の社会史


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です