三纈とは、日本で古くから行われてきた三種類の染色技法をまとめて表す言葉であり、絞り染めの纐纈、板締めの夾纈、ろうけつ染めの臈纈のことを意味します。
「上代の三纈」「天平の三纈」などと称し、三纈の染色技法が、奈良時代には(710年〜794年)今の中国からすでに伝わっていました。
世界文化遺産にも指定され、多数の美術工芸品を収蔵していた奈良の正倉院には、染織品が17万点にも及ぶ数が現存していますが、白生地を二次加工した染色品も多く、三纈の技術を示す品々が、現在も保管されています。
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正倉院に保存されている三纈(さんけち)
奈良の正倉院に保存されている三纈の技法で染められたものの内訳としては、夾纈(板締め)は約100種、臈纈(ろうけつ染め)は約60種、纐纈(絞り染め)は約20種あるようです。
内訳をみると、当時は夾纈(板締め)が代表的な模様をつける技法であったのではないかと考えられますが、一方でろうけつ染めのハギレもたくさんあるようなので、どの技法が一番使用されていたのかは断定できません。
ちなみに、奈良正倉院には藍染された紐「縹縷」が現存しており、この紐は天平勝宝4年(752年)の東大寺大仏開眼供養の際に、開眼の筆に結び、全国からの参加者が手に取って功徳にあずかったとされる絹糸を束ねて撚ったものです。
東大寺二月堂には、藍で染めた和紙に銀泥で経文を書いた教典(二月堂焼教)が伝えられており、奈良時代の貴重な遺品として、また日本における藍染の歴史の古さもうかがえます。
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纐纈(こうけち)=絞り染め
纐纈は、生地を糸や紐でしばったり、生地を縫ったりすることで、その部分が染まるのを防ぐ(防染)の技法です。
染めものを一度でも経験したことがある人はよく理解できますが、絞り染めは一番手軽にできる模様染めの技法ですが、きちんとやると最も面倒な手作業の防染法ともいえます。
技法が比較的簡単なだけに模様も素朴なものが多く、支配者の専有物が主体の正倉院裂の中では重用されていませんが、民衆の間ではかなり愛用されていたのではないかと考えられます。
日本の歴史的には、現在の愛知県西部あたりで栄えた尾張藩において、その保護政策によって成長した有松絞りが有名ですが、絞りの種類が多く、綿織物を中心に染められたのが特徴として挙げられます。
夾纈(きょうけち)=板締め
夾纈は、板と板の間に生地をきつく挟み込むことで、その部分を防染する技法です。
正倉院にある裂の中でも遺例が多く、多彩で大型の模様を量産できる特徴があり、華麗な唐花文の流行に大きな役割を果たしました。
江戸時代には、紅と藍の単色の板締めが染められていました。
藍の板締めについては、島根県出雲市の板倉家にまとまった資料が残されており(現在は資料の大部分を島根県が所蔵)、「出雲藍板締め」と呼ばれています。
板倉家は、江戸時代後期には紺屋を営み、江戸末期の40年間は藍で板締めを染めていましたが、明治3年(1870年)に紺屋を廃業しています。
紅の板締めは京都で盛んに行われ、最後まで紅板締めを行っていたのが「紅宇」という屋号の高野染工場で、大正末期に紅板締めを廃業しました。
紅板締めは、地が紅で染まり、模様部分が白く染め抜かれた地染まり模様が多いです。
藍板締めは、板倉家に残っていた176種を越える型板のうち、143種が白地に藍の模様だったことから、地が藍で染まっておらず、模様部分が染まっている傾向があったようです。
その理由としては、藍は、甕に布全体をつけて染めるため、白場を多く残すことは簡単ではなく、型染めで地白模様を両面染めることは、高度で手間のかかる仕事だったことが考えられます。
型紙を使う友禅染めや、浴衣や手ぬぐいを染めている注染などでは、現代でも夾纈の技法が取り入れられています。
臈纈(ろうけち)=ろうけつ染め
臈纈は、溶かした蝋を防染剤として生地に塗り、ろうを塗った部分だけが染まらずに模様となる技法です、いわゆる「ろうけつ染め」です
中国や日本のみならず、世界中でこの技法が古くから使われてきました。
インドでは木版、インドネシアのチャップと呼ばれる銅板や手描き用のチャンチンなど、臈纈染めで使用される道具はさまざまです。
正倉院に保存されている臈纈の遺品は、「押臈纈」と称される版型法によるものが圧倒的に多いです。
木版で模様を作っておき、蜜蝋を溶かしたものを木版につけてから布に押し付け、その後植物染料で染めてから蝋をとって仕上げたり、あるいは木版に模様を切り抜いて、そこに蝋を流し込むといった方法がとられていたようです。
技法上、色の数に制約があったため、夾纈ほど流行しませんでしたが、版型の押印角度を変えるなどした面白みのある作例がよくみられるようです。
蜜蝋は、染色のためだけでなく、下痢止めや老化防止、軟膏剤などの薬用として、また鋳型をつくる材料として中国からの輸入されていたようです。
ただ、日本における臈纈は、平安時代以降にはみられなくなっています。
理由として考えられるのが、蜜蝋は、輸入品なので高価であったこと、遣唐使の廃止によって蜜蝋が日本になかなか入ってこなかったこと、日本の気候が加熱を必要とするろうけつ染めには不向きであったこと、型染めなどの糊置きが普及したこと、ろうを落とすのが大変だったことなどが挙げられます。
また、平安時代には服装が十二単のように単色をいくつも重ねて着るようになったため、臈纈染めのような模様染めが必要とされなくなったとも言われたりしますが、本当のことはよくわかっていません。
時は流れ、明治時代に入ってから、ウルシ科のハゼノキからつくられた木蝋による「ろうけつ染め」が再び登場するのです。
筆を使って蝋を塗るのは、明治時代以降に行われるようになった防染法です。
「ろうけち」と「ろうけつ」は、ともに蝋による防染という面では同じですが、表現上に大きな違いがあると、前田雨城氏は著書『日本古代の色彩と染』の中で以下のように指摘しています。
「ロウケツ」は蝋のひびわれに入った染料の着色模様の美しさが主眼であるが、「ろうけち」は、蝋のひびわれ模様のできているものが失格品とされている。
防染のため高価な蜜蝋を用いたのであるから、このことは当然で、現在残されている「ろうけち」に「ロウケツ」のような、ひびわれ模様のあるものもあるが、これなど失格品のため愛用されず取残されたものといえよう。
意識してひびわれを作りこれに美を求める「ロウケツ」と、意識してひびわれを作らないようにして、その防染部に造形の美を求めた「ろうけち」には、その染め方に多少の相違があるのは当然ながら、その作意の場が一部分に過ぎないので、「ロウケツ」の要領でその大部分を行なってもよい。 前田雨城(著)『日本古代の色彩と染』
蝋のひびわれを肯定的に許容するのか、それともしないのか、その着眼点に違いがあるという視点は興味深いです。
臈纈は、夾纈と同じように型を用いて模様を表すという意味では、広い意味での型染めと解釈できるので、中世以前のこれらの技法が、後の型染めの源流となったともいえるでしょう。
三纈の技法は、連綿と受け継がれる
三纈の技術は、現代でも使われており、日本においては世界中で他に類を見ないほどその技術が発展してきました。
そもそも日本の染め物は、日本で自然発生したのではなく、中国を通して受け取った外国の染め物を日本的な考え方や技法に置き換えて、整理していったという独自性があります。
日本の染め物の歴史は、インドに源を持つ仏教が、中国や朝鮮を経て日本に渡り、鎌倉時代に日本的な仏教である浄土宗に熟成したというような流れに良く似ています。
【参考文献】