「草木染め」という言葉は、日本の作家で染織家の山崎斌氏(1892年〜1972年)に命名されました。
1930年(昭和5年)、化学染料が普及してきたころ、天然染料は衰退の一途をたどっていきました。
「草木染め」という言葉は、古くから伝承されてきた染色方法を復興するにあたり、化学染料と区別するために名付けられたのです。
現在、草木染めという言葉の定義は、自然から得られる染料で染色することの総称として定着しています。 続きを読む
「草木染め」という言葉は、日本の作家で染織家の山崎斌氏(1892年〜1972年)に命名されました。
1930年(昭和5年)、化学染料が普及してきたころ、天然染料は衰退の一途をたどっていきました。
「草木染め」という言葉は、古くから伝承されてきた染色方法を復興するにあたり、化学染料と区別するために名付けられたのです。
現在、草木染めという言葉の定義は、自然から得られる染料で染色することの総称として定着しています。 続きを読む
藍は、古くから世界各地で使用され、人々に一番愛されてきたともいえる植物染料です。
日本人にとって、古くから藍染の青は身近な色のひとつで、全国各地に藍染をする紺屋(こんや)がありました。
明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先の暖簾などを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。
東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けました。
尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会
藍染された色は、一番薄い藍白から、一番濃い留紺まで、「藍四十八色」と呼ばれるほど多くの色味がありました。
それぞれの藍色に名前をつけて区別しようと思うほど、藍色を見る目を人々が持っていたともいえます。 続きを読む
「片輪車文」は工芸模様(文様)の一つとして、デザインに用いられてきました。
王朝貴族の乗り物であった牛車の車輪は木製で、乾燥すると割れてしまうため、使用しない時は川の流れの中に浸しておくことがありました。
その情景を図案化したものが、片輪車文です。 続きを読む
藍染の原料となる蒅は、収穫した蓼藍の葉を乾燥させ、水をかけかき混ぜる作業を挟みつつ、約100日以上の発酵期間を経て出来上がります。
蒅づくりにおいては、良い葉藍を栽培することが何よりも大事とされていますが、それと同じくらいに、乾燥葉を蒅と呼ばれる状態にするまでの発酵期間も重要です。 続きを読む
形のない風を模様化(文様化)したものは少なく、古代中国では風神や風のシンボルとされる想像上の鳥である鵬、雨とのつながりなどでデザインに表現されてきました。
風そのものを形にしたものには、細長い笹の葉のような三角形の一群を横に飛ばしたような模様(文様)があります。
日本においては、風は揺れ動く物体や空に飛ぶ雲などで表現されてきました。
桛木とは、紡錘(つむ)で紡いだ糸をかけて巻く工字形の木です。
桛木を模様化(文様化)したものは、桛木文として知られ、絣のデザインによく用いられてきた幾何学文様です。
絣織物の絣柄を表すための糸を、地糸に対して「絣糸」といいます。
絣糸は、さまざまな防染方法を活用し、糸に染まっていない部分を作ることで表現されます。 続きを読む
銘仙は、群馬県の伊勢崎が有名で、「銘仙といえば伊勢崎」というほど、全国的に知られていました。
銘仙は、平織りの絹織物の一種で、目専、目千、銘撰とも書かれ、「銘仙」の字を当てたのは明治時代以後となります。
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木綿(cotton)は、16世紀には日本国内での栽培が広まっていき、17世紀初頭ごろには飛躍的に発展していきました。
木綿は庶民の日常的な衣服となり、江戸時代の経済と政治において、一貫して重要な役割を果たしていました。
しかし、明治維新を経て、殖産興業政策のもとで、決定的な打撃を受けることになります。
殖産興業政策とは、明治政府が西洋諸国に対抗し、機械制工業、鉄道網整備、資本主義育成により国家の近代化を推進したさまざまな政策のことを指します。
明治政府は、産業の近代化を「輸出振興」「輸入防遏」という国家のスローガンを掲げ、輸出輸入の両面から綿業は、中核的戦略産業として位置づけられました。
外国の質の高い綿糸や綿布に負けないように、綿業の近代化は国家的な課題とされていたのです。 続きを読む
インドネシアの織物の中で模様を織り出す技法としては、紋織りとともに、広い地域で行われていたのが絣です。 続きを読む