江戸時代に奈良では、織り上げられた麻の布を白く晒した(漂白した)上質な布が生産されていました。
当時から、「奈良晒(ならざらし)」と呼ばれました。
室町時代には、奈良晒しの原料となる、苧麻(からむし(イラクサ科の多年草木))は、苧引き(おびき)という皮剥ぎを行なって、繊維を苧積み(おうみ)できる直前の状態まで半加工して、青苧(あおそ)という状態で流通していきました。
※おうみとは、繊維を細かく裂き、糸をつないでいく作業です。
全国に流通していったのは、青苧は繊維部分のみで余分なものがないため、軽量で出荷輸送に好都合だったためです。
北陸、関東で生産されたからむしが、各地で苧積み(おうみ)され、布として織られました。
青苧(あおそ)を糸にし、織ったままのものでは、茶褐色で染色もうまくいきませんが、奈良では、特に織り上がった布を晒して漂白する技術が特に優れていました。
奈良晒の美しさ
漂白におけるクオリティーの高さが、奈良晒と呼ばれた生地が近世に名をはせた理由だったのでしょう。
『苧麻・絹・木綿の社会史』には、布を晒すことの大切さに関連して、奈良晒しに関する記述が以下のようにあります。
今日でも越後上布は独自の雪晒によって漂白され、その美しさを高めている。江戸時代の木綿の場合も、晒しは完成品の品質を定める決めてといってもよく、松坂木綿・真岡木綿などの声価は、もっぱら晒技術によっていた。
じっさいは松坂木綿・真岡木綿などの名のある場合でも、織布そのものは、ひろく近傍各地の村々で行い、最後の晒を松坂や真岡で行なったのである。同様に奈良晒というのも、最終仕上げの工程である晒が奈良で行われたのである。
江戸時代の晒しの技術は、完成品の品質を決めるほどに重要視されていたのですね。では、実際に当時はどのようにして、晒す作業を行なっていたのでしょうか?
灰汁を使って不純物を除去する
『雍州府志(ようしゅうふし)』と呼ばれる、山城国(現京都府南部に関する初の総合的・体系的な地誌のなかに、記述があります。
何都の織る所、特に苧を択び(えらび)、織えて後、湯の灰を加え、之を煮る、而る(しかる)後木臼(うす)にて之を搗く(つく)、其後清水にて洗浄し、沙場或は原上にて曝す(さらす)、此の如きこの数編
「湯に灰を加え」というのは、木灰に熱湯を加えることで、アルカリ性の液体である灰汁が取れるのでそのことでしょう。それをふまえると、以下のような晒しの工程となります。
①灰汁のなかに、生地をいれて煮る
②煮た後、うすのなかで強く叩く
③綺麗な水で、洗う
④砂の上もしくは、野原で天日干しをする
⑤①〜④を繰り返す
いずれにしても一度で、真っ白になることはないと思うので、長い時間をかけて白く晒していたのでしょう。そして、専門の晒屋が奈良にはあったのでしょう。
小泉武夫著『灰と日本人』においても、灰と染織における晒しの技術についての以下のような記述があります。
染色される絹や木綿などをあらかじめ灰汁に浸したあとで染色いたしますと、浸さぬものに比べますと、比較にならないほど鮮明な色彩が得られるといわれます。
これはおそらく、木灰が繊維の周辺の色素や窒素化合物、樹脂、フェノール類、ヘミセルロースなどといった着色阻害物質を、やわらかく溶出除去するための一種の漂白作用であり、これによりまして純粋な白い布をつくることは、その後の染色効果をいっそう鮮やかに演出することにつながるからでありましょう。
水洗いだけでは落ちづらい不溶性の物質を、灰汁のアルカリによって可溶性にすることで繊維を精錬するのです。
雪上で、布を白くする技術
布を晒す技術として、非常におもしろいのが雪の上で布を白くする雪晒し(ゆきざらし)の技術です。
新潟県小千谷市、十日町市を中心に生産される越後上布の雪晒は、オゾンが食物性繊維を漂白する働きを利用したものです。
雪の上に織り上げた布を広げて、太陽の熱で溶けた雪の水分が、布を通して蒸発するときにオゾンが発生し、それが布を白くするのです。
反物の品物の種類や汚れによって晒す日数は異なりますが、大体約1週間くらい晒すようです。
昔の人は雪の上に布を広げてたら、なんだか白くなったということに気がついたはいいものの、なぜそうなったのかはよくわかってなかったのでしょう。真っ白く見える雪の色が、移るなどと思っていたのでしょうか。
灰汁をつかって布を白く晒す技術が昔は主に使われていたようですが、雪晒しのような変わったものもあり、いずれにしても昔の人々が多くの手間をかけていたことがわかります。
現代の人々が持ち合わせていないような美しい布への追求心、美的感覚をもっている人がたくさんいたことでしょう。
参考文献:苧麻・絹・木綿の社会史