地方における染色加工に対して、京都における染色加工は「京染」という名称が付けられてました。
目次
京都における染色加工である「京染(きょうぞめ)」
染色において、京都は歴史のある生産地であり、江戸時代から「京染」や「京染物」などと称されました。
各地方でその土地の気候や風土、生育した草根木皮(草の根と木の皮)などを用いた特産の染めがありました。
京都における染色の特色としては、白生地を小袖模様(文様)に染めることで、地染めでは紅染と紫染めの特技とされました。
古くから染めの種類によって細かく分業になっていたことから、加工業者と流通業者を取り持つ調整役となっていた悉皆業を営む悉皆屋は、さまざまな状況に対応しながら顧客の需要を満たしていました。
紫草(むらさき)で染めた京紫(きょうむらさき)
京都の昔からの「紫屋」と呼ばれる専業としている紫根染屋が「京紫」を染めていました。
江戸時代後期に出版された三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の百科事典である『守貞謾稿』(天保8年(1837年)に記録を始め、嘉永6年(1853年)成立)には、江戸紫は黒みがかった紫であり、京紫は赤味がかった紫との記載があります。
京紫が伝統的な紫染を受け継いだ少し赤みがかった紫色であるのに対し、「江戸紫」は青み(黒み)を帯びていたとされ、「粋」な色として親しまれました。
京都で染められる京友禅
京都で染められる友禅染めは、加賀国で行われていた「加賀友禅」に対して、「京友禅」と呼ばれていました。
京都は、西には桂川、東に鴨川というように、染色に必要な水に恵まれたことも、友禅染めが発達した要因の一つといえます。
手描友禅と型紙友禅があり、手描友禅は一つの作品を作るのに、約26工程に細分化された作業が必要となります。
型紙を用いた友禅は、明治時代に京都で開発された型紙を用いて、写糊で染める方法で、友禅染めの量産が可能となりました。
関連記事:京友禅(きょうゆうぜん)とは?京友禅の技法と友禅染めの種類について
京都における藍染
京都における藍染の歴史は、非常に古く、東寺が支配する寝藍座という同業組合があり、建武元年(1334年)の『東寺年貢算用帖』に藍に関する記載があります。
松江重頼(1602年〜1680年)によって、寛永15年(1638年)に出版された俳句に関する書物である『毛吹草』には、藍の産地として「山城(現在の京都府の南部)、尾張(現在の愛知県西部)、美濃(現在の岐阜県南部)」が挙げられています。
京都においては「京の水藍」という言葉が江戸時代の文献に残っており、色合いがあざやかで品質が高かったとされ、水藍の色は京浅葱(淡い水色)とたたえられていました。
京の水藍その名前だけあって、水稲のように水を張って田んぼで栽培された藍を表します。
関連記事:京の水藍(みずあい)。幻の京藍の歴史と栽培方法について
上方(京都・大阪)と江戸との風俗比較
江戸は、幕府をはじめ諸大名の屋敷が多く建っていたため、武士が多く集まり、人口も男子が多い状況でした。
一方、京都は宮廷と公家、および有力な商工業者が中心となる都市で、大阪は「天下の台所」として経済活動を行う商人によって形成されていた町という特徴がありました。
華麗な元禄風俗は、西陣織や友禅染めを主とする京都・大阪の手工業の成立によって生まれ、上方風俗が最も流行した時代とも言えます。
その後、江戸も次第に発展していき、文化文政の時代(1804年〜1830年)には町人文化が栄え、都市として成熟期となります。
江戸の風俗は、一般的には武家の影響下にあったため、禁欲的な意識が強かったことから、いわゆる「いき(粋)」と呼ばれる美学が生まれました。
関連記事:なぜ、江戸時代に縞柄の着物を着用することが粋(いき)だったのか?