寛文小袖(かんぶんこそで)とは?鹿子絞りを中心としつつ、刺繍と縫い絞りを併用した技法が用いられ、動植物のみならず文字や器具が動的な模様として表現される


小袖こそでは現在の「きもの」の原型にあたるもので、その名の通り、袖口が狭く詰まった仕立てになっています。

小袖こそでの起源は、平安時代中頃に庶民の日常着や宮廷における男女の下着から発生したと言われています。

鎌倉から室町時代において武家が台頭してくるにつれて、服装の簡略化が進み、上層階級に下着として用いられていた小袖こそではだんだんと上着として使われて、庶民の小袖こそでも上質化してきました。

その後、政治、文化の転換点である応仁の乱(1467年〜1477年)を境に、各階層共通の衣装の形式として小袖こそでが完成したのです。

寛文期を中心に流行した寛文小袖(かんぶんこそで)

武家階級を対象として制作されたと考えられている慶長小袖けいちょうこそでに対して、明暦めいれきごろ(1655年〜1658年)から経済力をつけ始めた町民の好みを反映した小袖こそでも作り出されはじめました。

寛文かんぶん期(1661年〜1673年)には、流行した小袖こそでの柄を集めた雛形本ひながたぼんが出版され、この時期にはすでに一般の人々にも小袖こそでが身近になりつつあったようです。

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上層武家階級は繍箔ぬいはく辻が花つじがはな(縫い絞りをメインに使用した文様染め)の伝統的な様式を混ぜながら落ちつきのある慶長小袖けいちょうこそでを生み出しました。

繍箔ぬいはくとは、古くは金銀の薄くたたき延ばしたものを布に縫いつけたものを表しましたが、近世では、型紙を用いてのりを生地に置き、その上に金箔きんぱく銀箔ぎんぱくを貼りつけることによって、織物を装飾する技法(摺箔すりはく)と刺繍ししゅうで模様を表わしたものを主に表しました。

積極的に新しい物事へ取り組んでいこうという気質や性格もった町人階級は、かぶき者や遊女の風俗などからも影響を受け、デザイン性の高い小袖こそでを生み出しました。

江戸時代初期において、重要な役割を果たした武家や町人たちの小袖こそでに対するデザインや趣向は、互いに影響し合い、武家階級が町民階級の系統に吸収されるような形で体系化した「寛文小袖かんぶんこそでが流行したと言われます。

熨斗菊模様小袖

熨斗菊模様小袖 江戸時代 東京国立博物館 写真引用:小袖 (京都書院美術双書―日本の染織)

寛文小袖の特徴

寛文期(1661年〜1673年)を中心に広く流行した寛文小袖かんぶんこそでは、動的な模様(文様)構成と個性的な模様が印象的な特徴になっています。

染めの技法は、鹿子かのこ絞りを中心としつつ、刺繍ししゅうと縫い絞りを併用するものが多いです。

表現される模様は、植物、動物のみならず器物や文字にいたるまで様々なものから着想が得られています。

寛文小袖かんぶんこそでの模様は、背中の左肩から右裾にむかって丸い円の一部分を描くようなものや、右肩を起点に左肩、右裾方面へ展開するようデザインが多く、いずれも大柄で動きがあるのが特徴的です。

【参考文献】『小袖 (京都書院美術双書―日本の染織)


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