辻が花は、室町時代(1336年〜1573年)から安土桃山時代(1573年〜1603年)にかけて流行した文様染めで、日本の染め物を代表するものであり、絞り染めの頂点ともいえます。
残っている記録には、辻が花という言葉が帷子(生糸や麻で作ったひとえ(裏をつけない衣服)の着物のこと)と結びついてあらわれることが多く、慶長8年(1603年)イエズス会によって長崎で刊行された『日葡辞典』には、辻が花という言葉が出てきます。
辻が花の項目には「赤やその他の色の木の葉模様や紋様で彩色してある帷子。またその模様、または絵そのもの」とあり、模様染がされた帷子やその模様を意味していたことがわかります。
しかし、今に現存しているものには、麻地の帷子はほとんどなく、小袖(袖口を小さく縫いつめて小型の袖にした着物のこと)や胴服(武家の常用着。羽織の古い言い方)ばかりです。
そのため、現在「辻が花」という言葉は、室町から安土桃山時代の小袖や胴服などにみられる縫い絞りをメインに使用した文様染めのことを、「辻が花」と読んでいます。

縞平絹地草花扇面雪輪雲模様辻が花/Metropolitan Museum of Art/CC0/via Wikimedia Commons,Link
辻が花の特徴
辻が花の特徴は、おもに縫い絞りと墨の描絵の2点が挙げられます。
まずなんといっても、縫い絞りで防染することが主体となって文様をあらわしている点です。
いわゆる絞り染めのような手技感のあるものではなく、模様の輪郭を縫っていき、締めていくことでさまざまな文様を出しています。
文様をはっきりと表現するためには、その輪郭をできるだけ細かく縫っていく必要があります。縫い絞りに適した生地である、薄くて張りのある練貫(経糸を生糸にし、練り糸を緯糸ととして織った絹織物)が、辻が花を染めた生地には圧倒的に多く用いられていたのです。
生地に対して数倍は太い麻糸を使って、練貫の細かい織り目を数本ずつ移動しながら密に縫い上げていくのです。
辻が花の特徴としてもう一つ挙げられるのは、墨の描絵(布地に筆で直接文様を描く染色技法)によって縫い絞りでは出せない文様を表現している点です。
描絵意外にも、摺箔(型紙を用いて糊を生地に置き、その上に金箔や銀箔を貼りつけることによって、織物を装飾する技法)や刺繍などさまざまな技法を併用しながら美しさを表現されています。
辻が花に多い模様
辻が花は、桜や藤、菊や椿など四季の草花をモチーフにしたものが多く、ぼかすように表現された墨の描絵には、しみじみとした情趣や、無常観的な哀愁を感じさせます。
モノトーンの墨の色と草木染めの鮮やかな色彩が共鳴しあい、草花の生き生きとした造形美が表現されたのです。
『辻が花 (京都書院美術双書―日本の染織2)』には、さまざまな模様が載っていますが、シンプルに花や葉っぱを表現しているものがやはり多く、中には鳥やトンボや獅子のような文様もみられます。
いつ、辻が花が生まれたのか?
現在わかっているもので制作年が最も古い辻が花は、享禄3年(1530年)に仕立てられて「藤波桶文様裂幡」です。

藤波桶文様裂幡
写真引用:『辻が花 (京都書院美術双書―日本の染織2)』
藤や波頭、桶の文様が表現された布は、一部が藍で染められ金や銀の摺箔を奥などすでに多彩な技法がみて取れます。
いまのところ、室町時代中期にまでさかのぼってしまうと、辻が花の作品は残っていませんが、最古でこのクオリティですので、これ以前にもきっとつくられていたことでしょう。
室町末から安土桃山時代、そして辻が花の終わり
室町時代末から安土桃山時代にかけては、描絵や摺箔が文様の主体となったり、絞りを用いらず墨の描絵だけで表現したり、練貫の白地を生かした表現方法がされたりと多様で複雑なデザインが生み出されています。
そこから時代の流行は変わっていくもので、辻が花のスタイルも漏れなく時代の流れにのまれていってしまいましたが、辻が花はもちろん次の流行にも影響を与えています。
おおらかで堂々とした文様が巧みな縫い絞りやその他技法によって表現されてきた辻が花ですが、慶長期(1596年〜1615年)に入ると、安土桃山時代にはよくみられた華麗でおおらかな色彩構成が無くなってきます。
そしてそのほとんどが黒、紅、白、藍色の染め分けられ、その中に刺繍で草花・鳥・器物などの文様を精巧に配置し、さらに摺箔するといったような流行りの先に、慶長小袖が生まれてくるのです。
参考文献:辻が花 (京都書院美術双書―日本の染織2)』