江戸時代後期から明治、大正、昭和の時代にかけて、庶民の間でとりわけ親しまれた織物に絣があります。
織物の組織としては、絣は平織りと繻子織りにみられます。
絣は「綛」や「纃」とも表記し、中国では「飛白」、マレー語の「イカット(ikat)やフランス語の「シネ」もそれぞれ絣模様の織物を表します。
絣(かすり)とは?
絣とは、経糸か緯糸のどちらか、あるいは経糸と緯糸の一定部分を、防染して染めた糸を使用し、織り模様(文様)を表現した織物を表します。
絣糸糸の防染方法としては、主に3つ挙げることができます。
最も一般的な防染方法は手で糸を部分的に括る(手括り)方法で、その他には板に糸を挟んだり、絣模様となる部分に木綿糸で織り締めて筵状に仕上げる(絣莚)技法などがあります。
目次
絣(かすり)の歴史
絣の技法は、日本の染織の歴史から見ると比較的新しい部類になる模様(文様)表現の技法です。
糸を括って防染する染織技法は、平安時代から公家社会においては、いくつにも段に(段だらに)染めわけた糸(白や赤、紫、紺、青など)を使用して組んだり編んだした、いわゆる「緂」と呼ばれる配色名がありました。
緂は、太刀の平緒や馬の手綱に使う織物、組紐などに活用されていましたが、あくまで色糸を混ぜて地色に変化を求めたものであったため、模様(文様)をつける意味での絣の範疇には入っていないでしょう。
緂という技法が行われていたのにもかかわらず、防染で染め柄を工夫した糸を使用して、織りの段階で模様(文様)をつけるという絣が江戸時代中頃まで登場しなかったのは、日本の服装や様式に調和しにくかったという点も考えられます。
安土桃山時代の縞織物の着物地(小袖)の中には、縦縞と色の無地部分を交互に織り出したものがあり、絣による表現に近づいた織物といえますが、模様(文様)というよりは、地文様的に扱われているところにとどまっています。
海外からの織物に影響を受け、日本でも絣が一般化
絣は、諸説ありますが、一般的にはインドが起源といわれています。
ハイデラバードという都市の近くに、洞窟寺院が見つかり、その壁画には、四つ目菱や矢羽根風の絣柄の衣装を身につけた人々が描かれていました。
この壁画は、紀元前2世紀から7世紀にかけてのものと考えられており、インドを絣の発祥地とする説の根拠になっています。
インドで生まれた絣は、インドネシアのジャワ島やスマトラ島などに渡り、南方諸島を経て、14世紀に沖縄に伝わってきました。
沖縄に入ってきた絣の技術は、南から日本に広がっていき、琉球絵絣や八重山白絣、宮古上布や久留米絣、大島紬など、絣文化がさまざまな土地で生まれてきました。
日本の本土に絣が伝わったのは、沖縄に広がってから400年後の江戸時代中期(18世紀以降)と考えられています。
江戸時代中期以後、武家の礼服である大紋、素襖、裃などの下に着た熨斗目小袖においては、腰の部分のみを縦縞として、それに横縞を加えた格子の腰明は、絣模様(文様)にあと一歩というところまで来た先駆的表現ともいえます。
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当時に沖縄を領土にしていた薩摩藩から、日本全土に伝わっていく過程で、越後上布や伊予絣(愛知)などの独自な絣文化も生まれていきます。
東南アジアの絣文様は、動物をモチーフにしたものが多く色合いもさまざまで、神秘的な魔除けやお呪いの意味が込められている場合も多いです。
文様に対する呪術性は、日本に上陸してからはほとんど意味をなさなかったと考えられ、自分たち独自の模様(文様)をどんどんと発達させていきました。
キの字形でトンボの形をしているとんぼ絣や蚊の群がって飛ぶような細かい文様の蚊絣などの身近な生物をモチーフにしたり、穴あきの小銭のような銭絣、猫の足をモチーフにした猫足絣など様々な模様(文様)が絣に織り込まれていきました。
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江戸時代の庶民は、絣という織文様を手に入れ、発展していった木綿と藍染を利用ながら海外の縞柄に挑戦したり、次々と織り柄を増やしていきました。
木綿の絣は、昭和10年代(1935年頃)までは日本人にとってはごく一般的な庶民の着物です。
安価で丈夫で、たくさん洗っても退色しづらく、着物としての美しさも兼ね備えているため、豊かとは言えなかった当時の人々にとって、大切な衣類だったのです。
文献に登場する絣
絣という語は、1603年に編集されたポルトガル語による「日葡辞書」の項目に「casuri」があり、「日本の着物に施す染色法の一種で、雲のような模様の描き方をするもの」とありますので、このころには、すでに技法が知られていたことがわかります。
江戸時代後期、喜多川守貞が1837年から30年間かけて書き上げた『近世風俗史』は、時勢、生業、貨幣、男服、女服、音曲、遊戯、食類などの近世の風俗を語る文献となっていますが、そのなかにも絣の記載もあります。
巻之一九織染の項目に「カスリ、字未如奈ル字ヲ用フル乎、帷ノ字等ヲ書ト雖ドモ未慥カタラズ」とあるのです。
つまり、「絣はどのような字を使うは未だにわからず、帳の字などを書くと言えども未だ確かではない」としています。
絣織りの発展に欠かせない木綿と藍染の普及
日本において絣織りが発達していった要因として、木綿と藍染の普及を抜きに語ることができません。
江戸時代以前、海外から輸入された木綿が国内で広がってくるまでは、日本において苧麻を原料にした布が一般的に生産されていました。
戦国時代から江戸時代初期にかけて、栽培の手間のかからなさや経済性の高さによって、木綿が爆発的な普及したとされます。
1551年の『天文日記』には「唐木綿」と「日本木綿」が書き分けられていることから、室町時代後期の大永(1521年〜1528年)から天文(1532年〜1555年)頃には、すでに日本での綿栽培が広がってきていたとされています。
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そして、日本中に広まっていった木綿に対して、染色の相性が良かったのが藍染だったのです。
藍染の普及
藍は、日本固有の植物ではなく、大陸から渡来したのは3世紀頃(一説には7世紀)といわれ、加温して年中藍染ができるようになった藍建ての技法の確立は室町時代に入ってからと考えられています。
江戸時代に木綿が普及し始め、綿織物が庶民の衣類の主役になっていくと木綿に対して染まりが良い藍染が全国的に広がっていきます。
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藍染で染められることによって、生地が丈夫になり、虫除けにもなるとされ、また汚れが目立たなくなる利点もありました。
庶民の生活に根ざした木綿と藍染において生まれた美意識から、縞や格子、絣といった美しい模様も広がっていきました。
久留米絣(くるめがすり)の創設者・井上伝(いのうえでん)
久留米絣の本場の久留米市は、江戸時代に有馬藩21万石の城下町として栄えました。
当時は、九州北西部にある有明海沿岸で綿花が栽培され、筑後川流域の肥沃な土地では藍の栽培が行われていました。
有馬藩藩主は質素倹約を大々重んじており、領民に絹織物の着用を禁じていたこともあり、久留米地方では、どの町や村でも絣を織る機の音が聞こえない日がないほど綿織物の生産が日常の仕事となっていました。
どの家でも、娘が物心つく頃になると機織りを習い始めるのが慣習となっていたのです。
久留米絣を考案したとされる井上伝(1789年〜1869年)も、このような風土の中で生まれ育ちました。
天明8年(1788年)に、穀物商を営んでいた井上源蔵の娘として生まれた彼女は、10歳の頃には巧みに機を織り、評判となっていました。
絣を発明したきっかけは、以下のように伝えられています。
伝がたまたま見つけた藍染の布がところどころ白くかすれている(白い斑点がある)のに気がつき調べたところ、青い木綿糸には染め残されたように、ところどころ白い地色があったのです。
彼女はこのような出来事から暗示を受け、糸を括って藍で染めることで「絣糸」をつくり、寛政11年(1799年)頃に久留米絣の技法を発明したとされています。
伝の考案した織り柄は、「加寿利」と命名され、評判を呼び、彼女が16歳頃には数十人の弟子がいたといわれています。
21歳で井上次八と伝は結婚し、2男1女をもうけましたが、28歳の時に夫に先立たれた彼女は、再び生家に戻って機織りに精を出し、「十字絣」や「キの字絣」などの柄を生み出しました。
伝が40歳の頃には、弟子が300人〜400人ほどにもなっていたといいます。
絵絣(えがすり)の夢
伝が特に力を注いだのが、「絵絣」を織ることで、鳥や花などの動植物やイメージした柄を絣で表現するのが彼女の最後の夢とも言えました。
完成まであと一歩のところで彼女の力になったのが、後に10代前半で「からくり師」として久留米で注目を集め、後に「からくり儀右衛門」との異名を持った発明家である田中久重(1799年~1881年幼名:田中儀右衛門)という人物の存在でした。
伝の求めに応じて彼が編み出した技法は、絵絣用の種糸をつくることでした。
下絵を和紙に描き、それを緯糸に写すことで種糸ができます。
あとは写した部分に合わせて糸を括ってから染色し、解いた糸を織れば下絵通りに織り上がる仕組みになっています。
彼の協力を得て絵絣を完成させた伝は、その後も新しい柄の創出と後継者の育成に生涯を捧げていきました。
伝によって歴史が明けた久留米絣は、後に国武絣と呼ばれた非常に細かく模様の入った絣糸によって織られた小柄の絣を考案した牛島ノシや大塚太蔵(1806年〜1843年)などの優れた作家を次々と生み出しつつ、全国有数の綿織物の産地として急速に発展をしました。
1839(天保10年)年頃に、大塚太蔵(1806年〜1843年)によって、現代にも残っている絵糸台を用いた伝統的な絵絣の技法が発明されました。
絵絣(えがすり)の特徴
絵絣と呼ばれている鶴や亀などの布幅いっぱいに織り出された模様絣は、幕末以前に主に木綿で藍染され、手括りされた絣糸で、布団地として織られてきました。
昭和の初めには、年間200万反以上を生産し、久留米といえば「紺絣」の代名詞となるほど、庶民の衣服として愛用されました。
絵絣には、絣糸の滲みやズレ、藍の濃淡が醸しだす深々とした美しさがあり、さらに使われ、洗いざらされることによる味もありました。
主に布団地として庶民に実用され、やがては使い捨てられていく運命であったものが、民芸運動の創始者である柳宗悦によって世に紹介されました。
柳は、雑誌『工芸』(二十号昭和七年七月)にて、「ありふれたものにも美しさがある」ということをテーマに、大柄の布団地にみられる城や鶴亀、海老などの模様絣の美しさに目をとめ、取り上げました。
「絵絣」という名前自体は、昭和7年(1932年)〜昭和10年(1935年)ごろに、柳を中心に集まった初期民芸運動の人々の間で生まれ、定着していったと考えられます。
久留米絣(くるめがすり)の技法
久留米絣は、昭和32年(1957年)に、麻の越後上布、絹の結城紬に次いで、絣の技法において国の重要無形文化財に指定されています。
本物の久留米絣には、3つの条件があります。
- 手くびりによる絣糸を使うこと
- 純正の天然藍で染めること
- 投杼の手織機で織ること
本物の久留米絣として上記の要件を満たすためには、気の遠くなるような根気と熟練した技が必要になるのです。
生産の流れとしては、最初にデザインを下絵にとり、墨で印をつけた糸の箇所を一本一本括っていきます。
これを「手くびり」といい、いまも昔も「荒麻」と呼ばれる、麻の一種の表皮をセイロで蒸し、皮を剥いで乾燥させたものを使います。
上質の荒麻は、表皮が飴色で、それに湿りを与えてから糸と直角にして括っていきます。
荒麻の結び方や切り方によっては解く時に余計に時間がかかってしまい、結びがゆるすぎても白場がくっきりと残らないため、絣の良し悪しを左右するほどに手くびりの作業は、全工程の中でもは大きなウェイトを占めているのです。
手くびりの後に、藍染し、荒麻を解き、水洗いしてから、糸に糊つけし、投杼の手織機にかけていきます。
長年久留米絣を織っているベテランでも、一反を織り終えるのに10日間ほど時間がかかるほどといわれています。
粋好みの町人に愛された絣
木綿だけでなく、麻の絣も作られるようになります。
黒に近い紺色の地に白の絣文様をいれたものや、白地に黒や黒に近い紺色の絣文様のなかでも、特に細かい文様のものは、洒落た絣として粋好みの町人に好まれたようです。
特に、越後上布や宮古上布の細かい絣は、最高級なものとして、明治、大正、昭和を通じて夏のさかりの暑い時期に人々から愛されてきました。
【参考文献】
- 高田倭男著『服装の歴史』
- 『藍生-松枝玉記作品集-』
- 『月刊染織α1986年5月No.62』