染色において、化学的なものでも天然由来のものでも、必ず染まり上がった色は経年変化があります。
天然の原料を使用した草木染めは、その美しさは言わずもがなですが、欠点としては植物や染め方にもよりますが、基本的には堅牢度があまり良くない点があります。
堅牢度とは、さまざまな条件下において色落ちするかしないかの度合いのことです。
草木染めは比較的早く色あせてしまうからこそ魅力があり、今この瞬間の色を楽しむことができるとも言えます。
染色において、化学的なものでも天然由来のものでも、必ず染まり上がった色は経年変化があります。
天然の原料を使用した草木染めは、その美しさは言わずもがなですが、欠点としては植物や染め方にもよりますが、基本的には堅牢度があまり良くない点があります。
堅牢度とは、さまざまな条件下において色落ちするかしないかの度合いのことです。
草木染めは比較的早く色あせてしまうからこそ魅力があり、今この瞬間の色を楽しむことができるとも言えます。
四季のうつろい、地理的、歴史的、文化的背景などさまざまな影響を受け、日本の伝統色とされている色の名前は、非常に多くの種類があります。
数々の色の中でも、藍色、紅色、紫色の3つの色は活用されてきた歴史や色の豊富さなどをみると、日本人にとってとりわけ関わりの深かった色とも言えます。
古来、日本人は、色彩や色の表現について特別な感情や独自の感性を持っていたとされます。
古代の人々は、草木にも霊があると考え、草木の霊は特に「木霊」と呼ばれ、一番身近に存在する「和霊」としてとらえていたとも言われています。 続きを読む
化粧の原型は、顔や身体への彩色と言われています。
体に色を塗っているアフリカの部族を映像で見たことがある人もいると思いますが、古くは部族や階級間の差別化や、色がもたらす呪術的な目的のために彩色が行われていたと考えられているのです。
江戸時代に奈良では、織り上げられた麻の布を白く晒した(精錬)上質な布が生産されており、当時から、奈良晒と呼ばれました。
室町時代には、奈良晒の原料となる、イラクサ科の多年草木である苧麻(学名 Boehmeria nivea var. nipononivea)は、苧引きという皮剥ぎを行なって、繊維を細かく裂き糸をつないでいく作業である苧積みの直前の状態まで半加工して、青苧という状態で流通していきました。
黄土による染色は、植物染料の発達にともなって、次第に衰退していったと考えられますが、日本においても広い地域で黄土を使用した染めが行われていたのではないかと推測されています。
7世紀後半から8世紀後半にかけて編集された、現存する日本最古の歌集である『万葉集』には、黄土を詠ったとされるものが6首あり、大阪の住吉地域での黄土についての記述があります。 続きを読む
l紺屋は、「こうや」や「こんや」と読みます。
日本の中世(平安時代後期(11世紀後半)から、戦国時代(16世紀後半)までの500年ほど)においては、「紺搔」「紺座」「紺灰座」「紺屋」など、藍染に関する文献における記載も多くみられます。 続きを読む
藍染は、古くから世界中で行われてきました。
古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。
藍の色素を持つ植物も多種多様で、それぞれの地域にあった植物を使用し、さまざまな方法で藍染が行われてきたのです。
藍の色素を持つ植物を科別にすると、マメ、アブラナ、キツネノマゴ、タデ、キョウトウチク、ガガイモ、マツムシソウ、モクセイ、クロウメモドキ、キク、ヒメハギ、ランなどが挙げられます。
インドにおける藍栽培の歴史は古く、古代ローマ時代にはインドで商品化されたインド藍がエジプトのアレクサンドリアを経由してローマへ輸入されていました。
アラビア商人によって、エジプトをはじめ地中海方面へと運ばれていましたが、ポルトガルのバスコダガマが南アフリカを周るインド洋航路を発見したことによって、インドにおける藍の生産はいっそう盛んになったのです。 続きを読む
染色する人を染師(そめし)と呼んだりしますが、古くはただ染めるだけではなく、染めるための原料を入手するところから、「染師」の仕事がはじまっていました。 続きを読む
「草木染め」という言葉は、日本の作家で染織家の山崎斌氏(1892年〜1972年)に命名されました。
1930年(昭和5年)、化学染料が普及してきたころ、天然染料は衰退の一途をたどっていきました。
「草木染め」という言葉は、古くから伝承されてきた染色方法を復興するにあたり、化学染料と区別するために名付けられたのです。
現在、草木染めという言葉の定義は、自然から得られる染料で染色することの総称として定着しています。 続きを読む