藍色」カテゴリーアーカイブ

藍染と唐草模様

日本における藍染(ジャパンブルー)の歴史。藍作・藍染が発展し、衰退していった背景について

藍染は、古くから世界中で行われてきました。

古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。

藍の色素を持つ植物も多種多様で、それぞれの地域にあった植物を使用し、さまざまな方法で藍染が行われてきたのです。

藍の色素を持つ植物を科別にすると、マメ、アブラナ、キツネノマゴ、タデ、キョウトウチク、ガガイモ、マツムシソウ、モクセイ、クロウメモドキ、キク、ヒメハギ、ランなどが挙げられます。

インドにおける藍栽培の歴史は古く、古代ローマ時代にはインドで商品化されたインド藍がエジプトのアレクサンドリアを経由してローマへ輸入されていました。

アラビア商人によって、エジプトをはじめ地中海方面へと運ばれていましたが、ポルトガルのバスコダガマが南アフリカを周るインド洋航路を発見したことによって、インドにおける藍の生産はいっそう盛んになったのです。 続きを読む

藍染された浅葱色(あさぎいろ)の糸

浅葱色(あさぎいろ)とは?藍染された薄い藍色(水色)について

藍は、古くから世界各地で使用され、人々に一番愛されてきたともいえる植物染料です。

日本において、藍染された色は一番薄い藍白あいじろから、一番濃い留紺とめこんまで、「藍四十八色あいしじゅうはっしょく」と呼ばれるほど多くの色味があり、それぞれ名前がつけられていました。

それぞれの藍色に名前をつけて区別をしようと思えるほど、藍色を見る目を昔の人々が持っていた・・・・・・・・・・・・・・・ともいえます。

藍色のなかで、平安時代からみられる浅葱色あさぎいろという色名があります。 続きを読む

『画本東都遊』より「紺屋の図」 浅草菴(編) 葛飾北斎(画) 享和2(1802)序刊

紺屋(こうや・こんや)とは?紺屋と諺(ことわざ)について

紺屋は、「こうや」や「こんや」と読みます。

「紺」という名前が登場するには非常に古く、大化たいか3年(647年)に制定された日本の冠位である「七色十三階の冠位ななしきじゅうさんかいかん」で、第五大小青冠の服色に「ふかはなだ」が当てられました。

日本の中世(平安時代後期(11世紀後半)から、戦国時代(16世紀後半)までの500年ほど)においては、「紺搔」「紺座」「紺灰座」「紺屋」など、藍染に関する文献における記載も多くみられます。 続きを読む

藍染された浅葱色(あさぎいろ)の糸

京の水藍(みずあい)。幻の京藍の歴史と栽培方法について

藍染の原料となる藍の栽培は、古くは日本中で行われていました。

京都においては「京の水藍みずあい」という言葉が江戸時代の文献に残っており、色合いがあざやかで品質が高かったとされ、水藍の色は京浅葱きょうあさぎ(淡い水色)とたたえられていました。

水藍とは、その名前だけあって、水稲すいとうのように水を張って田んぼで栽培された藍のことです。

水藍は、京藍、東寺藍、ちょぼ藍(田んぼのことを、その土地の言葉で「ちょぼじ」と言ったことに由来)などと呼ばれていました。

水藍に使用された藍の品種は、京都の東九条村では「丸葉」と呼んでいたようですので、基本的には丸葉タデ藍(丸葉藍)であったと考えられます。

Persicaria tinctoria bergianska

蓼藍(丸葉),タデアイ,Persicaria tinctoria bergianska,Udo Schröter, CC BY-SA 3.0, via Wikimedia Commons,Link

続きを読む

縞織布『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

藍下(あいした)とは?藍と植物染料の重ね染めについて

藍下あいしたとは、藍で下染したぞめするという意味でこの名があります。

べに下染したぞめするのを、紅下べにしたというの同じです。

昔は、高級品で深みのある黒紋付の染色などに、檳榔子びんろうじが使用されていましたが、その場合、藍や紅などで下染めした上に、檳榔子染びんろうじぞめをすると、青味または赤味を含んだ黒を染めることができました。

藍で重ね染めをすると、堅牢度けんろうどの向上も期待することができます。
続きを読む

茶屋染(ちゃやぞめ)・茶屋辻(ちゃやつじ)とは?藍染で総文様に型染めされた帷子(かたびら)について

茶屋染ちゃやぞめは、江戸時代初期頃から行われていた型染めの一つです。

主に武家の女性が着用した帷子かたびらの染色方法で、藍色一色で型紙を用いて全体に模様が入るように(総模様)染めたものです。 続きを読む

蓼藍(タデアイ)

地藍(じあい)とは?阿波藍に対する言葉である地藍について

地藍じあいとは、その土地で栽培された藍という意味でこの名前があります。

江戸時代になってから木綿の栽培が盛んになり、全国的に仕事着や日常着に着用されるようになったのが、藍染された紺木綿や紺絣こんがすりでした。

その藍の需要増加にうまく対応したのが、現在の徳島県の阿波あわで、藍の原料作りといえば阿波が本場とされました。 続きを読む

型染めされた木綿の藍染布,唐草模様,長板中型

藍作・藍染と木綿の深いつながり。共に発展し、衰退していった歴史

明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先のきさき暖簾のれんなどを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。

東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と表現したとされます。

日本中の庶民にとって大切にされてきた、藍染の衣類。

藍染が日本に広がった理由として、木綿との非常に密接な関係がありました。 続きを読む

勝色と言われるような色目の布尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

藍染における勝色(褐色/搗色)の由来とは?武将にとって藍染は縁起の良い「勝染め」であった

藍は、古くから世界各地で使用され、人々に一番愛されてきたともいえる植物染料です。

日本人にとって、古くから藍染の青は身近な色のひとつで、全国各地に藍染をする紺屋こうや(こんや)がありました。

明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先のきさき暖簾のれんなどを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。

東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けました。

尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

藍染された色は、一番薄い藍白あいじろから、一番濃い留紺とめこんまで、「藍四十八色あいしじゅうはっしょく」と呼ばれるほど多くの色味がありました。

それぞれの藍色に名前をつけて区別しようと思うほど、藍色を見る目を人々が持っていた・・・・・・・・・・・・・・・ともいえます。 続きを読む