染色・草木染めにおいて、大豆をすりづぶして作った豆汁(呉汁)が使用されてきました。
豆汁の成分は、主に大豆タンパク(グリシニン)とデンプン、脂肪の混合物となります。
絵具や顔料を定着させるために、豆汁の大豆タンパクが役割を果たします。
卵白や牛乳なども、豆汁と同じようにタンパク質による接着剤、凝固剤としての役割をします。 続きを読む
染色・草木染めにおいて、大豆をすりづぶして作った豆汁(呉汁)が使用されてきました。
豆汁の成分は、主に大豆タンパク(グリシニン)とデンプン、脂肪の混合物となります。
絵具や顔料を定着させるために、豆汁の大豆タンパクが役割を果たします。
卵白や牛乳なども、豆汁と同じようにタンパク質による接着剤、凝固剤としての役割をします。 続きを読む
茄子(ナス)は、江戸時代のことわざである「一富士二鷹三茄子」のひとつに含まれ、これに関連して多くのデザインに用いられてきました。
「一富士二鷹三茄子」は初夢に見ると縁起の良いとされるものの順で、「富士」は日本一の山で繁栄を意味し、「鷹」は威厳のある鳥や高く舞い上がる鷹にあやかって運気上昇、「茄子」は生すや成すを意味し、物事の発展するさまを言い表わしています。 続きを読む
藍染は、古くから世界中で行われてきました。
古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。
藍の色素を持つ植物も多種多様で、それぞれの地域にあった植物を使用し、さまざまな方法で藍染が行われてきたのです。
藍の色素を持つ植物を科別にすると、マメ、アブラナ、キツネノマゴ、タデ、キョウトウチク、ガガイモ、マツムシソウ、モクセイ、クロウメモドキ、キク、ヒメハギ、ランなどが挙げられます。
インドにおける藍栽培の歴史は古く、古代ローマ時代にはインドで商品化されたインド藍がエジプトのアレクサンドリアを経由してローマへ輸入されていました。
アラビア商人によって、エジプトをはじめ地中海方面へと運ばれていましたが、ポルトガルのバスコダガマが南アフリカを周るインド洋航路を発見したことによって、インドにおける藍の生産はいっそう盛んになったのです。 続きを読む
芭蕉は、中国原産の植物で寺院や庭園などに観賞用として植えられてきました。
長い楕円形の大きな葉が特徴的な芭蕉の日本での歴史は古く、平安時代初期には知られていたようです。
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トンボ(蜻蛉)は身近な存在として、古くから文様に用いられてきました。
トンボは、「あきづ」という古名があります。
日本は古く秋津島(あきつ洲)と呼ばれ、「トンボの国」だったとも言われます。
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日本に梅が伝わったのは、弥生時代から飛鳥時代ごろとされ、中国から薬用の烏梅として伝来したと言われます。
梅は、薬用、食用、観賞用、そして染色用と多様な用途のある有用な植物として栽培されるようになり、梅の花は古代より人々に観賞され、愛好されてきました。
平安時代には、梅の花が春の先駆けとして咲くことから新年の希望の花とされたり、松と竹とともに歳寒三友の一つとして瑞祥の意味が与えられていました。
中国の人々は松・竹・梅を厳しい環境でもその節度を守り不変の心をもつものとして「歳寒三友(さいかんさんゆう)」と古くから讃えており、日本にもその風習が伝わっていました。 続きを読む
勾玉を二つ、または三つ円形に組み合わせた文様(模様)を巴文と言います。
巴文は、一般的には調度品や武具、瓦当、家紋などに多く用いられてきました。
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三角形の頂点が重なるように組み合わされた模様を鱗文様などと言います。
芸能の世界では、鱗文様の衣装を着用した女性は、鬼女や蛇体(脱皮する生き物)であることが多く、人物の背景を暗に意味する表現に用いられます。
鱗文様は、「内と外を分けるもの」として生と死や人間と異界、「固定された存在ではなく変わり続ける存在」として再生や変化を意味したりします。 続きを読む
江戸時代、武士の裃や礼装用の小袖に染められた柄は、細やかな模様でありながら格式を示す重要な要素とされていました。
当初、柄の格付けは職人や武士の間で暗黙のうちに行われていたものの、明確な呼称や体系は存在しなかったと考えられますが、江戸時代後期から明治時代にかけて、染物業界や呉服業者が柄の格付けを整理し、広く染め柄が認知されるようになったとされます。
この流れで小紋染めの「三役」や「五役」といった呼称が生まれ、小紋の代表的な柄として位置づけられました。 続きを読む
ハゼノキ(ヤマハゼ)は、ウルシ科ウルシ属の落葉小高木で、学名はToxicodendron succedaneumです。
黄色の心材(樹木を輪切りにしたときに、中心部分にある色の濃い部分の材木)が、染料になります。
本来、中国の黄櫨は、ウルシ科の別属の木ですが、平安時代にまとめられた三代格式の一つである『延喜式』には、「採黄櫨一人」との記載があることから、日本で自生していたハゼノキ(ヤマハゼ)も利用されていたようです。
ハゼノキ(ヤマハゼ)の心材を染料として使用し、明礬媒染で黄色、灰汁媒染でやや赤みを増し、石灰水では赤茶色、鉄塩による媒染で真黒に発色します。
室町時代中期の康正3年(1457年)に書かれたという『雁衣鈔』の中に、「櫨。表赤色。裏黄。若色也。年少人モ又十七八ノ人モ着之」と書かれており、櫨の色が重ねの色目のひとつとみられています。
この文章からは、室町時代には重ねの色目として櫨の色が用いられていたことがわかります。
平安時代末期に成立した仮名文の平安装束の有職故実書である『満佐須計装束抄』には、袿の色目のひとつとして、「しろぎぬつねのことなり 蘇芳の匂い。白絹に。櫨濃き打ちを、重ぬべきなり。」とあり、櫨色は、宮廷の女官達に一般的に使用されていた色彩の一つであったと考えられます。
【参考文献】『月刊染織α1990年12月No.117』