投稿者「iroai.jp」のアーカイブ

染色における抜染剤(Discharging agent)。還元抜染剤と酸化抜染剤について

抜染ばっせんには、白色抜染と着色抜染があり、いずれも防染とは逆で、あらかじめ染着ぜんじゃく(せんじゃく)している染料を分解して白地、もしくは別の色にしようというものです。

抜染ばっせんと漂白は、原理的には同じものであり、抜染剤には還元かんげん抜染剤と酸化抜染剤があります。

還元抜染剤(かんげんばっせんざい)

還元かんげん抜染剤には、亜鉛末あえんまつ(粉状の亜鉛)、亜硫酸水素ナトリウム、ハイドロサルファイト類(ロンガリット、デクロリンなど)、塩化錫えんかすずなどがあります。

関連記事:染色におけるハイドロサルファイト(Hydrosulfite)とは?

木綿の白色抜染には、ロンガリットとデクロリンなどのハイドロサルファイト類が使用されるのが一般的です。

酸化抜染剤(さんかばっせんざい)

酸化抜染剤には、塩素酸塩や重クロム酸塩、フェロシアン化カリウムなどがありますが、酸化抜染剤は繊維を傷つける危険性がありますので、還元抜染剤の方がよく使用されます。

出雲祝風呂敷(いずもいわいふろしき)とは?出雲祝風呂敷の歴史や技法について

島根県の出雲いずも地方では、婚礼の際に、嫁入り風呂敷を持っていく風習が、古くから伝わっていました。

風呂敷といっても、一般的に使用されるような簡易な風呂敷ではなく、慶事けいじ(おめでたいこと)にふさわしい品格のあるものです。

出雲祝風呂敷いずもいわいふろしきとは、婚礼の際の嫁入りの際に、伝統的に用いられる筒引つつびき(筒描き)された藍染風呂敷のことを表します。 続きを読む

京友禅(きょうゆうぜん)

京友禅(きょうゆうぜん)とは?京友禅の技法と友禅染めの種類について

京都は、三方を山に囲まれ、町の中に清流が流れる、古くから「山紫水明さんしすいめい」の都といわれた歴史ある町です。

町の中央に堀川が流れ、西には桂川、東に鴨川というように、染色に必要な水に恵まれたことも、友禅ゆうぜん染めが発達した要因の一つといえます。 続きを読む

染色におけるハイドロサルファイト(Hydrosulfite)とは?

ハイドロサルファイト(Hydrosulfite)とは、亜ジチオン酸ナトリウム(化学式:Na2S2O4)の通称です。

ハイドロサルファイト(Hydrosulfite)は、乾燥状態では安定していますが、空気中の湿気を吸収して次第に分解していきます。

新くてさらさらしている状態のものであれば問題ありませんが、保管状態が悪いものや時間が経って古くなったものは、使用する際の効果が薄れてしまうため、注意が必要です。
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近江上布(おうみじょうふ)とは?近江上布の歴史や技法について

近江上布おうみじょうふとは、滋賀県の琵琶湖の東岸の神崎かんざき愛知えち犬上いぬがみ地区などで織られる麻布を表しています。

このあたり一帯は、琵琶湖の豊富で良質な水に恵まれているため、古くから数々の布が織られてきました。
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牛首紬(うしくびつむぎ)とは?牛首紬の歴史や技法について

牛首紬うしくびつむぎとは、石川県の最南端の白山市で作られている織物です。

現在の白山市にあった村である白峰村しらみねむらは、白山はくさんの登山口として知られており、「牛首うしくび」は、その旧地名です。

冬は平均3メートルほどの積雪があり、半年近く雪に埋もれるような生活のなか、古くから人々はくわを植え、かいこを育てまゆを作り機を織り、生活の収入を得てきた歴史がありました。

牛首紬うしくびつむぎは、昭和63年(1988年)に国の伝統的工芸品に指定されています。 続きを読む

能登上布(のとじょうふ)とは?能登上布における絣の染色技法と海晒しについて

石川県の能登のとにおいて、能登上布のとじょうふという麻織物が古くから有名で、昭和初期には機屋はたやが120軒、織物業者が原料を出して、一般家庭の子女などに家で織物を織らせる出機でばたが6000台を数え、麻織物生産数全国一位を誇っていました。

能登上布のとじょうふは、能登半島の付け根にあたる部分の石川県鹿西町や鹿島町を中心とした地方で織られていました。

現在、能登上布は、石川県の無形文化財に指定されています。 続きを読む

南部古代型染(なんぶこだいかたぞめ)

南部古代型染(なんぶこだいかたぞめ)の特徴と技法について

岩手県盛岡市に古くから伝わる型染めは、「南部古代型染なんぶこだいかたぞめ」と呼ばれ、現在は、蛭子屋えびすやの小野氏に、その伝統が受け継がれています。

蛭子屋えびすやの歴史は古く、甲州こうしゅう(山梨県)の豪族であった南部義光に、染師として、蛭子屋えびすや善助が雇い入れられたことに始まります。

それ以後、南部氏が、甲州から奥州おうしゅう三戸さんのへ、さらに盛岡へ居城きょじょうを移したのに際して、蛭子屋えびすやも共に従い、寛永かんえい5年(1628年)、蛭子屋えびすや三右エ門が南部藩の御用染師として登用されたのが初代で、現在も続く「蛭子屋小野染彩所」が南部古代型染なんぶこだいかたぞめの伝統を受け継いでいます。 続きを読む