牛首紬(うしくびつむぎ)とは?牛首紬の歴史や技法について


牛首紬うしくびつむぎとは、石川県の最南端の白山市で作られている織物です。

現在の白山市にあった村である白峰村しらみねむらは、白山はくさんの登山口として知られており、「牛首うしくび」は、その旧地名です。

冬は平均3メートルほどの積雪があり、半年近く雪に埋もれるような生活のなか、古くから人々はくわを植え、かいこを育てまゆを作り機を織り、生活の収入を得てきた歴史がありました。

牛首紬うしくびつむぎは、昭和63年(1988年)に国の伝統的工芸品に指定されています。

牛首紬(うしくびつむぎ)の特徴

牛首紬の特徴は2匹のかいこが作った玉繭たままゆから糸を紡ぎ出し、糸づくりから製織までのほとんどの作業を手作業で一貫生産していることです。

釘に引っかけても釘の方が抜けてしまうという「釘抜紬くぎぬきつむぎ」の別名をもつほどの丈夫さも兼ね備えています。

耐久性に優れながらも通気性や肌触りのよさ、また、美しい光沢があることも多くの人を惹きつける魅力で、製品としては伝統的な柄である藍染めのカツオ縞の着物をはじめ、訪問着や帯、和装小物などが作られています。

牛首紬(うしくびつむぎ)の歴史

牛首紬うしくびつむぎの始まりは、保元ほうげん4年(1159年)に起きた平治の乱(へいじのらん)に敗れた源氏方の落人おちうどが白山のふもとにある牛首うしくび村に逃れ、同行していた妻たちが、村人に機織りを伝えたことによるものとされています。

江戸時代初期の寛永かんえい年間(1624年〜1644年)には、「牛首布うしくびふ」と呼ばれる麻織物の名前が知られていたようで、また、享保きょうほう年間(1716年〜1736年)には、「釘抜紬くぎぬきつむぎ」と呼ばれるつむぎが織られていたとされます。

釘抜紬くぎぬきつむぎは、くぎに引っかけても釘を抜くほど丈夫だといわれ、人々に知られていたようです。

紬織物つむぎおりものは、冬の雪深いこの地方の人々にとっては、何よりも貴重な現金収入で、明治時代には、年間500〜600反ほど織られていました。

大正時代から昭和初期にかけて、織物生産の最盛期を迎え、大正8年(1919年)には、地元の縞紬しまつむぎが、全国染織工業博覧会において、金賞を得たほどでした。

その後は、どの織物産業と同じように、経済不況や第二次世界大戦などによって衰退し、縞物しまものも織られなくなり、わずかに白紬しろつむぎだけが織られるだけとなり、一部の担い手によって伝統的な技術を保つだけになりました。

牛首紬うしくびつむぎは、戦前、白山紬はくさんつむぎの名前で市場に出ていましたが、戦後、石川県金沢市の商社が「白山紬はくさんつむぎ」の商標をとってしまったため、白山紬はくさんつむぎの名前が使えなくなってしまい、本場の白山紬はくさんつむぎが、白山紬はくさんつむぎを堂々と名乗って市場に出せないという状況がありました。

牛首紬(うしくびつむぎ)の技法

牛首紬うしくびつむぎは、昔は真綿まわたからの手紡ぎ糸を使用していましたが、のちに玉繭たままゆから座繰りした糸が使用されるようになりました。

製糸は、あらかじめ約30分ほど煮て柔らかくしておいたまゆを、釜の中で煮ながら糸を引きます。

1度に70〜80個のまゆから引き上げ、1本の糸にしながらりをかけて枠に取っていきます。

引き終わった糸は、水分を切って乾燥させます。

乾燥させた糸は、枠からクダ巻き機にかけてクダに巻き取り、さらに大きな枠に巻き取りながらりをかけていくのです。

麻袋に糸を入れて釜で煮ていき、経糸のみのり付けをして天日に干します。

製織せいしょくは、高機たかばた(たかはた)で織られ、白生地のまま出荷されました。


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