日本画の題材は、古くから花鳥風月が中心となり、染織品の模様(文様)にも花や鳥をテーマにした作品が多く作られてきました。
鳳凰や朱雀のような架空の瑞鳥(吉兆とされる鳥)から、鶴や鷹、鶉、鷺、千鳥、鴛鴦など実在するさまざまな種類の鳥が「鳥文」として描かれてきました。 続きを読む
防染の一種で、日本独自の「注染」という技法があります。ゆかたや手ぬぐい、風呂敷、のれんなどに対して主に使われる技法です。
布を端から90センチずつ、染めようとする模様以外のところに、型紙あるいはシルクスクリーンを使って防染糊を置いて、つぎに折り重ねては同じ型紙で糊を置くという作業を繰り返します。
2反(一反は長さ約10.6m、巾が約30㎝)を同時に染めるので、布は20枚前後に折り重ねられます。これを注染台にのせて、模様になる部分に上から染液を注ぎこんで同じ色の部分を一度に染め上げます。 続きを読む
笹文は笹の葉や幹、根などを表現した文様(模様)で、平安時代から衣服の織り文様、牛車や輿(2本の棒の上に屋形があり、そこに人を乗せて人力で運ぶ乗り物の1つ)などの道具にも表現されました。 続きを読む
長い歴史を経てきた西陣織物には、多種多様な技法によって、さまざまな織物が生産されてきました。
西陣織は、京都で生産され、高級な紋織物として有名です。
生産は意匠紋紙業、綜絖業、糸染め業、金銀糸加工業、織物業、原糸商など、複雑な分業工程を経過して行われてきました。
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藍は、古くから世界各地で使用され、人々に一番愛されてきたともいえる植物染料です。
日本人にとって、古くから藍染の青は身近な色のひとつで、全国各地に藍染をする紺屋(こんや)がありました。
明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先の暖簾などを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。
東京の街を歩き、日本人の服装に藍色が多用されている様子を目にしたアトキンソンは、明治11年(1878年)に東京大学で講演し、藍について以下のように述べています。
「日本においては、藍を染料となし、これを使用する量極めて大なり、けだし、他国人のはじめて日本に来たるものも、全国至るところ、青色衣装の非ざるなき(青色の衣装でないものはない)を見てこれを知るべきなり」(久原躬弦、宮崎道正 合訳「藍ノ説」収載)
アトキンソンは上記のように、日本人の生活に占める藍の色の多さに驚いたことを述べています。
この東京大学での講演は、のちに「藍ノ説(ジャパンブルー)」という小論文にまとめられました。

尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会
藍染された色は、一番薄い藍白から、一番濃い留紺まで、「藍四十八色」と呼ばれるほど多くの色味がありました。
それぞれの藍色に名前をつけて区別しようと思うほど、藍色を見る目を人々が持っていたともいえます。 続きを読む
すすき(芒/薄)は、秋の七草の一つで、穂が風になびく動物の尾を思わせることから「尾花」という別名があります。
すすきは、秋の野の情景を表現する文様(模様)として、蒔絵や陶器、染色品に多く用いられ、秋草や月、蝶、水鳥、小鳥などと組み合わされて、写実的に表現されてきました。
16世紀の安土桃山時代に作られたとされる「扇面芒丸紋模様繍箔裂」には、芒文が丸紋とともに紅色の練貫地に刺繍で表現されています。
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日本においては近世以降に、産業が発達して富の蓄積が増加すると、財力のある商人などが高価で手の込んだ衣服を着用し、その富を誇りました。
支配者層は、富を持った者の目にあまる振る舞いは、身分制による社会秩序を崩すものとして、贅沢を禁止する法令を出すのです。 続きを読む
絵革(えがわ)は、画革とも書き、革に絵を染めつけたという意味からこの名前があります。
革を染めるのは、平安時代の頃からおこなわれていたとされます。 続きを読む
藍染の原料となる蒅は、収穫した蓼藍の葉を乾燥させ、水をかけかき混ぜる作業を挟みつつ、約100日以上の発酵期間を経て出来上がります。
蒅づくりにおいては、良い葉藍を栽培することが何よりも大事とされていますが、それと同じくらいに、乾燥葉を蒅と呼ばれる状態にするまでの発酵期間も重要です。
藍の葉を発酵させる際に注意する点として、「藍師・水師七悪」という言い伝えがあります。 続きを読む
菖蒲は、江戸時代には品種改良が始まっていたというくらい、古くから日本で愛されてきた花です。
音が「勝武」や「尚武(武を尚ぶ)」に通じることから、菖蒲を文様化した菖蒲文が武人に好まれて用いられました。 続きを読む