縞織物

縞織物の種類。海外から舶来した縞織物の歴史について


日本では室町時代頃から茶の湯が行われ、茶人達は海外から舶来はくらいした珍しいきれを競って入手しようとしていました。

朝鮮や中国、ポルトガルやオランダなどの船によって、インドや東南アジア、ヨーロッパなど、様々な国から珍しい織物が運ばれ、とりわけ縞柄の織物が人々の間で人気を博しました。

縞織物は基本的に、縦縞(竪縞たてじま)、横縞よこじま格子縞こうしじまの3種類のうちのどれかに当てはまります。

用いられている色の素材や糸の太細、緻密さ、配色、縞の幅の広狭こうきょう、金銀糸の使用、紋織もんおりの併用など、ありとあらゆるの縞織物が存在します。

海外から舶来した縞織物の歴史

江戸時代以前に渡来した縞木綿

室町時代ごろから中国や南方諸国から、多くの布帛ふはくが渡来し、そのうち、縞木綿はとくに間道かんとうと呼ばれていました。

もともと茶の湯が一つの形式を整えたのは安土桃山時代で、当初は金襴きんらん緞子どんすなどが主に使用されていて、器物は「唐物からもの」と呼ばれていました。

しかし、千利休せんのりきゅうの出現によって茶の湯の形は変化し、海外から輸入された唐物から内地産(国産)の器物(和物)を賞用するようになり、この辺りで「び茶」の形が形成されました。

千利休(1522-91),利休居士像,Sen no Rikyu JPN (cropped)

千利休(1522年-1591年),利休居士像,painted by 長谷川等伯, calligraphy by 春屋宗園, Public domain, via Wikimedia Commons,Link

わびを重んじる傾向は、従来の豪華な敷類より、わび味のある縞木綿の要求が著しく増加するようになり、縞木綿の舶載も目立ってきます。

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江戸時代中期以降に渡来した縞木綿

綿織物

綿織物

多くの珍しい布が江戸時代以前から、大量に舶来していましたが、今日ではこれらの裂を「名物裂めいぶつぎれ」と呼んでいます。

名物裂めいぶつぎれのなかで、縞物をとくに「間道かんとう」と呼ばれました。

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もともと間道かんとうとは、茶人間で用いた縞裂の総称であり、元来、絹地の竪縞たてじま、または格子縞こうしじまのものを表していましたが、だんだんと木綿地のものにもこの名称が用いられるようになりました、

茶の湯の発展とともに、間道かんとうは安土桃山時代から江戸時代初期にかけて多く舶来されてきたと考えられます。

江戸時代初期に千利休せんのりきゅうの創始したび茶の流行によって、より一層び茶にふさわしい縞物の需要が増加していたと考えられます。

ただ、江戸時代は厳しい鎖国令さこくれいが出されていたため、外国との交易は唐船からふね(中国船の総称)や紅毛船こうもうせん(オランダ船に対して使われた俗称)によって行われていました。

江戸時代中期以降には、紅毛船こうもうせんが南方諸国に産した絹織物を舶載して、日本との交易を行なっていました。

この頃は、長崎を中心として、南蛮貿易なんばんぼうえきが盛んになり、舶載された絹織物や縞木綿が多種にわたっていました。

寛文かんぶん期(1661年〜1672年)に紅毛船こうもうせんによって長崎に舶来した縞木綿に関して、現存する文献『長崎覚書』には、インドや東南アジア諸国、中央アジアやペルシャなど、非常に多くの地域で産したと思われる織物の記載が残っています。

長崎歴史文化博物館が所蔵している『文政二年 阿蘭陀船本方品代印本帳』によると、島物(主として唐唐桟)126点、更紗154点、緯替紋錦27点、海黄2点の実物の裂を貼り付けした見本帖みほんちょうが現存しています。

現存する記録や実物の見本帖みほんちょうによると、江戸時代には縞物の需要が極めて多く、多数の織物が舶載されてきたことがはっきりとしています。

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江戸時代に舶載された縞織物の種類

江戸時代に舶載された縞織物(古渡島木綿)の文様、色合い、産地はさまざまありました。

江戸時代中期以降に舶来した数々の縞織物は、当時の農民階級の木綿地の普及とともに広く模様に取り入れられました。

江戸時代後半ごろには、当時の女性たちが織り上げた縞織物のきれを貼り付けた見本帖である「縞帖しまちょう」を作り、大切に保存していたとされ、縞柄が庶民に愛されていたことがわかります。

縞帖(1857年)(安政四年嶋染集帳)

縞帖(1857年)(安政四年嶋染集帳)

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占城縞(チャンパ縞)

占城島(チャンパ縞)は、安南地方(ラオス、カンボジア)の占城せんじょう(現在のベトナム南中部あたり)で生産されたものと考えられています。

地色は白地で、茶色の竪縞たてじまが整然と表されたものです。

特に江戸時代中期ごろには、絹地に藍色を主調色として、黄色、茶色、紅色を添えた唐桟縞とうざんじま風の広東縞に類似したものが非常に重宝されました。

弁柄縞(ベンガラ縞)

弁柄縞べんがらじまは、紅柄島とも書き、その色合いは酸化第二鉄(Fe2O3) を原料とした染料で染めたもので、褐色や、いくらか紫色を帯びた褐色をしています。

ベンガル地方で、この染料が古くから縞物に使用され、日本にはオランダ船によって舶来したとされます。

江戸時代の商品学書である『万金産業袋ばんきんすぎわいぶくろ』には、ベンガラ縞について以下のような記述があります。

ベンガラハ巾三尺九寸、地色、煤竹色すすたけいろ樺色かばいろ島文様、千筋せんすじ樺島かばしま、タカの羽、トカゲ島但し立島たてじまヲイフ『万金産業袋ばんきんすぎわいぶくろ

経糸は絹、緯紬糸の縞物もあり、その文様は立島たてじまを基本として、地色とともに数々の変化のものがあったと知られています。

唐桟縞(唐留縞)

唐桟縞とうざんじま桟留縞さんとめじま)と称された縞物は、その縞文様の構成が、あたかも古代の神社・仏閣において用いられた「唐桟戸からさんど」に類似した平行線によって構成された縞です。

桟留縞さんとめじまという言葉でまとめられた名称の中で、その代表的なものが「唐桟留とうさんとめ」です。

唐桟留とうさんとめの産地は、インドのマドラス付近の「サントメSanTome(セント・トマス)」が原産地であり、唐桟留とうさんとめはこの地名にちなんだ名称と考えられています。

素材は麻や綿で、特にこの木綿地は非常にしっかりとしており、強い光沢を持っていたとされます。

当時使用された「唐」という言葉の意味は、中国を意味するよりも、より大きな意味で「遠い国々」を表した言葉です。

「唐(遠い国々)」のさらに奥の方という意味も込めて、唐桟留とうさんとめは、奥島唐桟おくしまとうざん奥島おくしま)とも呼ばれていました。

江戸時代の商品学書である『万金産業袋ばんきんすぎわいぶくろ』には、桟留縞さんとめじまについて以下のような記述があります。

桟留島さんとめじま(聖多島)巾三尺五寸、丈三丈二尺〜三尺、文様二赤糸入リ、立島、俗に奥島トイヘリ、是御本手也ト云、紺地ニ浅黄色島ヲ青手トイフ、䖳ガタラ、赤サンクズシ、ナド有、ナベテコレヲ奥島唐桟留おくしまとうざんとめトテ賞翫しょうがんスルナリ

奥島おくしまは、地色が紺色で、蘇芳すおう染の赤糸が入っているものを表し、青手というのは、浅黄島のことです。

この「奥島おくしま」は、もともとオランダ人によって舶載されたもので、寛永かんえいの頃より、すでに流行し、特に天保てんぽうの頃には、その舶載は盛んに行われました。

厚手の木綿しか織れなかった幕末に、細番手ほそばんての糸を使用して織り上げられた木綿縞は、町衆の間でも人気を呼び、夏着の薩摩上布さつまじょうふに対して、冬着に唐桟とうざんを愛用したようで、将軍も着用したことがその流行を一層広めたともされます。

武州入間郡(現在の埼玉県川越市あたり)にて、唐桟留とうさんとめを模した縞織物が盛んに生産され、川越唐桟(川唐かわとう)と称されて江戸で人気を博しました。

京都で製作された奥島風の絹織物は、「柳条」と呼ばれていたようですが、品質は劣っていたとされています。

江戸時代の武士や数寄者すきしゃの中には、古渡、中渡、今渡と織物が舶来した時代を識別し、乱立、胡摩、万両、大名、三筋、天正、鰹、紅葉(算崩し)、紅唐などとそれぞれの縞に愛称を付け、布を細かく吟味し、鑑賞する人々がいたようです。

セイラス縞(錫蘭山島)

セイラス縞(錫蘭山せいろんざん島)は、唐桟とうさんの一種とされ、インドのセイロン島が原産とされています。

江戸時代中期に編集された日本の百科事典である『和漢三才図会わかんさんさいずえ』には、茜色と白色で構成された格子柄の縞織物であると記載があります。

ジャガタラ縞(咬吧島)

ジャガタラ縞(咬吧ジャガタラ島)は、唐桟とうさんの一種とされ、インドネシアのジャワ島が原産とされています。

紺色を主とした小形の格子縞文で、柄が表現されています。

カピタン(甲比丹・加比丹)

カピタン(甲比丹)は、ポルトガル語のCapitian(船長)に由来した名称の織物で、室町時代から江戸時代中期頃にかけて、外国から舶来しました。

江戸時代の商品学書である『万金産業袋ばんきんすぎわいぶくろ』には、カピタンついて以下のような記述があります。

カピタン巾三尺九寸、色イロイロアリ、但黄茶類、ネズミ、ビラウト、モク(樗)ナド多し。右今照気、弁柄島、カピタンノ三品は縦糸ニテ緯木綿ニ見ユ」

カピタンと呼ばれたものは、細番手ほそばんての糸を使用した縞織物で、経糸は絹糸で、緯糸は木綿を用いたものと考えれます。

色は様々で、黄色や茶系統の色を多く使用し、赤や藍色のものもありました。

コンテリキ(今照気)

コンテリキ(今照気)は、オランダ船(和蘭船)によって舶載された、経糸・緯糸ともに絹糸を使用した縞織物で、この名称は、江戸時代に長崎港の荷揚げ品を記録した「唐蛮貨物帳とうばんかもつちょう」に出てきています。

普通は、巾三尺九寸でベンガラ島に比べて地質がやわらかく、ツヤがあるようですが、産地については定かではありません。

オランダ船の俗称に、「紅毛船こうもうせん」という言葉がありましたが、オランダ船によって舶来したものは、「オランダ木綿」としても扱われていました。

算崩縞(さんくずしじま)

算崩さんくずしは、石畳いしだたみのように三筋ずつ経緯に表現した模様をいいます。

算崩縞さんくずしじまは、唐桟とうざんに多く使用された筋文様で、江戸時代の寛永かんえい正徳しょうとくに広く流行した模様です。

算崩縞さんくずしじまは、当時の農民の代表的な縞として知られています。

カアキ縞

khaki(泥土)を意味したことに由来した縞織物で、泥土を染料として黄褐色の綿織物とされます。

リキン縞

リキン縞は、古くは「八米緞」と称され、オランダ語の「ラーケン」、すなわち「繻子しゅす」を意味した語の転化と考えられます。

地色は、主に藤色で縞模様が表現されたものです。

江戸時代中期の百科事典である『和漢三才図会わかんさんさいずえ』(1712年)には、「八米緞」は中国の広東かんとん産のものを最良品とし、オランダ産のものも美しく、日本産のものは質が硬く、広東かんとん産のものと比べて劣っているとあります。

また、縞模様の色合いは白や黒、赤に茶色の縦縞があったようです。

チョロケン(著羅絹、長羅絹)

チョロケン(著羅絹、長羅絹)は、江戸時代中期ごろにオランダや中国の広東かんとんから舶載された絹織物で、山梨県で生産された甲斐絹かいきに地質が似ています。

模様は、杢目もくめ文様で、元禄げんろく頃の『節用集せつようしゅう』によると「木(もく)を織りたる衣也」とされています。

カナキン(金巾)

カナキンは、金巾かなきんとも書き、綿織物で生金巾、綾金巾、嶋金巾などがあります。

【参考文献】『月刊染織α1986年3月No.60』


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