「わび茶」、「侘び寂び」などという言葉がありますが、「わび」という言葉はどのような意味なのでしょうか?
芳賀幸四郎氏の『わび茶の研究』では、「わび」の美意識の形成を古代の歌論にさかのぼって詳しく論じています。その美意識は、大きく2段階に分けて考えられるようです。
第一段階、和歌における余情幽玄の美
平安時代前期の905年、『古今和歌集』ができた時代は、和歌の「詞」と表現される「心」が結びついていることが和歌の理想とされ、「心」が上回って詞足らずで表現され尽くしていない歌は下手なものとされていました。
詞で直接には表現されないが、言外に感情を感じられる歌は「幽玄」とも評されるようになったのです。
心が詞を上回るような表現の美意識は、「余情幽玄の美」ともいえます。
鎌倉時代(1185年〜1333年)の末期になると、完全円満な美に対して不完全な美、均衡のとれた典雅な美に対して不均衡でやつれた美がより、高い次元の美として高く評価されるようになったのです。
第二段階、能や連歌における中世的な美・幽玄の深まり
室町時代(1336年〜1573年)になると、美意識は歌論に変わって、能楽論や連歌論によってさらに変化していきます。
能楽の名手が、観客を喜ぶような能を演じずも、どことなく人の心を深く感動させるような演目をしたり、代表的な連歌師が「どのような歌を読むべきか?」と問われれば「枯れ野のすすき、有明の月」と答えたように、能や連歌でも「侘び」や「冷え」の美が高く評価されるようになったのです。
芳賀幸四郎氏は中世の美意識について、以下のように述べています。
心敬(室町時代中期の天台宗の僧、連歌師)が連歌の理念として志向し、最高究極の美として仰いだのは、禅竹(室町時代の猿楽師、能作者)での場合と同じく、春の花や秋の紅葉の感覚的な美とは対照的な緊張した冷厳な冬枯れの美、満目蕭条とした外見の底に生命力を潜在させた枯野にも似た美、簡素冷厳・寡黙寂静の美であった。
それにしても、古典的なものの決定的に崩壊した応仁の大乱前後において、古代的な美の否定としての中世的な美・幽玄がここまで深まったことは、まことに注目にあたいすることである。
春の桜や秋の紅葉のといった感覚的に単に美しいと思えるものではなく、草木が枯れてひっそりとした冬の野山のなかにおいても、しっかりと生命力を見せる木々の姿に美を見いだしたのです。
「わび」が美意識、境地を示す言葉に
「わび」という言葉を聞くと千利休が思い浮かびますが、利休の時代では「わび」を美意識を指す言葉として使うことはありませんでした。
利休によって大成された茶の湯の美意識を意味する言葉として「わび」を使ったのは、『南方録』であるという指摘があり、利休の時代の「わび」は、「侘数寄」という言葉として使われており、「高価な唐物茶道具を買えず、それを使えない茶人たちのこと」であったとされています。
わびという言葉は、「冷・凍・寂・枯」などという言葉を言い換えたもので、もともと精神的に満たされない気持ちの意味から、物質的に不足して苦しむことに変わっていったと言われてもいます。
「わび茶」という有名な言葉がありますが、「寂び」「冷え枯れる」といった中世的な美意識から脱却して多様化した美意識をも含むものとして、脱俗の境地を示す言葉として使われるようになっていったのです。
参考文献:『千利休の「わび」とはなにか』