草木染めにおいては使用される植物染料は、それぞれ染料としての性質が異なります。
藍や紅花など特殊なものを除けば、媒染剤を活用することで発色し、固着するものがほとんどです。
染色と媒染の工程は、基本的には一緒に行いません。
染めと媒染が一緒にできれば楽だと思いますが、それぞれの工程を分けるのにはきちんとした理由があるのです。
歌舞伎文様は、江戸時代の歌舞伎芝居の当り狂言や、人気役者が扮装(ある人物の姿になること)するため用いた模様(もんよう)です。 続きを読む
丈長でゆったりとしたコート風の衣服であるカフタン(caftan)は、中央アジアの草原地帯に起源があると言われます。
カフタン,Kaftan,Smithsonian National Museum of African Art, CC0, via Wikimedia Commons,Link
トルコの王様が功労者に栄誉を与え、外国の大使の名誉のためにカフタン(caftan)を授けたとされます。
ササン朝のペルシャの人物像もカフタンのような衣服と長ズボンを着用しており、中世以後のトルコ人はほとんどカフタン姿で現わされています。
近世の東洋好みの一端としてトルコ風の衣服、すなわちカフタンのようなものを西欧人が着用しているのが、肖像画にも残っています。
1955年にディオール(DIOR)が、カフタンをヒントにコート(カフタン・コート)を作りました。
長い切れ込みがあり、後ろでボタン留めとなる仕様になっていました。
蟹(カニ)を模様化(文様化)したものを、蟹文といいます。
蟹は、硬い甲羅で身を守って(武装して)いるため、尚武の意味(武道や軍事を大切なものと考える)で紋章にも用いられてきました。
安土桃山時代(1568年〜1600年)頃に作られたとされる「薄水色地蟹文麻浴衣」は、小判形の胴に大きなハサミを開けたり閉じたりする蟹が散りばめるようにデザインされています。
カニの模様(文様)部分に防染糊で型置きして糊伏せした後に、藍染されています。
徳川家康(1543年〜1616年)が着用していたとされる浴衣は、三十三点(領)がまとめて現代まで遺されており、『駿府御分物』として伝えられました。
蟹牡丹文は、牡丹を表現した模様(文様)の一種で、その形が蟹(カニ)に似ているところからこの名前があります。
牡丹は、中国で非常に愛好されてきた花の一つで、模様(文様)としての歴史も古く、宋代(960年〜1279年)以降には写実的なデザインが好まれました。
日本においても鎌倉時代頃から蟹牡丹文が見られ、遺品としては東京国立博物館に所蔵されている、護良親王所用と伝えられる「赤地蟹牡丹模様錦」があります。
江戸時代から明治時代前期に作られたとされる木綿製の敷物である「鍋島緞通 蟹牡丹唐草文 縁七宝繋ぎに小雷文」も美しい蟹牡丹文として知られています。
「縑」は、細かく固く織られた絹布を表します。
「縑」は、太い糸で織った粗末な絹布を表した「絁」の対義語となります。
『日本書紀』には、神功皇后の時に、古代の朝鮮半島南東部にあった国家である新羅から貢がれたとあります。
『魏志倭人伝』には、三世紀初めに「絳青縑」を日本から魏の使者に贈ったことが記されています。
平安時代には、縑は、装束に仕立てるための布に用いられていました。
瓦当は、丸瓦の先端に葺く鐙瓦につけた模様(文様)のある円形の部分を表します。
後には、平瓦の先端に葺く軒瓦にも瓦当をつけました。
瓦当を模様化(文様化)したものを瓦当文といいます。
円の中に巴文や蓮華文、宝相華文、同心円文などがデザインされてきました。
デザインにおける羯磨文は、密教の法具である「羯磨金剛杵」が模様化(文様化)されたものです。
『金剛頂経』の教えを表す成身会は、大日如来の智慧の世界そのものともいえる会で、単独で「金剛界曼荼羅」と呼ばれることもあるほど重要な会ですが、この会が「羯磨会」や「根本会」などとも呼ばれます。
羯磨は、羯磨会の際に用いるのでこの名前があります。
金剛杵は、もともと杵の形をした武器で、両端が鋭くとがっており、密教では煩悩を破る法具とされます。
この金剛杵の両端に、三つの鋒が付いた三鈷杵を十字に組み合わせたのが羯磨文です。
羯磨文の交差した部分は、もともと半球型であったのが、のちに蓮花(ハスの花)の形となり、家紋にも用いられてきました。