型染めされた木綿の藍染布,松文(松模様)

デザインにおける吉祥文(きっしょうもん)

吉祥きっしょう」は、良いきざしや、めでたい印を意味する言葉です。

吉祥文きっしょうもんは、「吉祥」の意味が込められたデザインを総称します。

中国古代の『五行説』や『易経えききょう』の思想に基づくもの、宗教上の信仰によるもの、その他視覚的感情によるもの、歴史的伝説に基づくもの、言葉の発音と意味による語呂合わせ、隠語や迷言など、多種多様の吉祥文きっしょうもんがあります。

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『魏志倭人伝』に記載される倭国の染織品について

魏志倭人伝ぎしわじんでん』は、中国の三国時代についての歴史書です。

魏志倭人伝ぎしわじんでん』とは、中国の歴史書『三国志』に収められた『魏書ぎしょ』うちの「東夷伝とういでん」の項の「倭人わじん」の条にあたる部分のことを通称しています。

東夷伝とういでん」とは、中国の歴史書の中で、中国の東方に住んでいる諸民族について書かれた記述のことです。

3世紀初頭に「倭国わこくの女王」と称された卑弥呼ひみこが、中国の三国時代に華北かほくを支配した王朝であったへの贈りものとして、染織品も挙げられているため、弥生時代にはすでにある程度の染織技術があったと考えられます。 続きを読む

和装における着流し(きながし)

着物を着た上に、羽織袴はおりばかまを着けない男子の略式の和装を「着流し」といいます。

江戸時代の男子は、小袖こそでの上にかみしも羽織袴はおりばかまを着けるのが正式の服装でした。

女子の場合は、羽織を着けない姿が正式であったため、「着流し」という言葉は用いられません。

養蚕や機織り、染色技法について記された『機織彙編(きしょくいへん)』大関増業(著)

江戸時代後期の文政ぶんせい13年(1830年)の頃、『機織彙編(きしょくいへん)』という書物の初版が発売されました。

筆者は、現在の栃木県にあたる下野国しもつけのくに黒羽藩くろばねはん11代藩主であった大関増業おおせきますなり(1781年〜1845年)です。

大関増業おおせきますなりは、伊予国大洲おおす藩主であった加藤家に天明2年(1782年)に生まれ、文化8年(1811年)に、大関家の養子となり、翌年の文化9年(1812年)に領地であった黒羽(現在の栃木県)に入ります。 続きを読む

色合いにおける麹塵(きくじん)

色合いにおける麹塵きくじんは、青色の一種で、中国では古く『周礼しゅらい』にその名前がみられます。

周礼しゅらい』は、儒教経典(十三経)の一つで、『礼記』『儀礼』とともに「三礼」を構成する書物です。

周礼しゅらい』は、紀元前11世紀に周公旦しゅうこうたん(中国の周王朝最初の王である武王の弟)が作ったとも、前漢代の学者である劉歆りゅうきんが作ったともされます。 続きを読む

デザインにおける菊五郎格子(きくごろうこうし)

文化・文政(1804年〜1830年)の頃に活躍した歌舞伎役者である三代目尾上菊五郎おのえきくごろうにちなんだ模様(文様)に、菊五郎格子きくごろうこうしがあります。

江戸時代に「判じ物(はんじもの)」と呼ばれる文字や絵画に隠された意味を当てるなぞ解きが流行しましたが、判じ物文様(はんじものもんよう)の一つとして「菊五郎格子きくごろうこうし」が知られていました。 続きを読む

伝統的な布を精錬・漂白する(晒す)技法や種類。灰汁、天日、雪、海水を活用して布を晒す技術について

江戸時代に現在の奈良県にあたる地域では、織り上げられた麻の布を白く晒した(精錬)上質な布が生産されており、当時から、奈良晒ならざらしとして有名でした。

化学的な技術が発展していない時代においては、いかに布を精錬せいれん・漂白(さらす)することができるかが布の付加価値を向上させるためには重要な要素でした。

奈良晒ならざらしも、布を精錬する技術によってその付加価値が向上していました。 続きを読む

デザインにおける桔梗文(ききょうもん)

桔梗ききょうは、古くから人々から愛された植物で、和歌や絵画、デザインにおける模様(文様)の題材として活用されてきました。

特に、秋の野に咲く草花の風情を文様化(模様化)した秋草文あきくさもんの一つとして桔梗ききょうが描かれることが多くありました。 続きを読む

型染めで唐草模様が表現された木綿布

捺染(プリント)とは?シルクスクリーンの歴史と活用方法

捺染なっせん(プリント)とは、模様を抜いた型紙やシルクスクリーン、彫刻ちょうこくをいれたローラーなどを使って、合成染料を混ぜた糊料こりょう色糊いろのり)を布地にプリントして模様を出すことを意味します。

色糊いろのりは、糊の防染力ぼうせんりょくと染料の着色力を合わせもつ材料なので、使い方によってはさまざまは表現をすることができます。

捺染(プリント)とは?

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型染めされた木綿の藍染布,唐草模様,長板中型

藍作・藍染と木綿の深いつながり。共に発展し、衰退していった歴史

明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先のきさき暖簾のれんなどを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。

東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と表現したとされます。

日本中の庶民にとって大切にされてきた、藍染の衣類。

藍染が日本に広がった理由として、木綿との非常に密接な関係がありました。 続きを読む