蓼藍(タデアイ)

藍染の原料となる植物の種類。代表的な藍植物(indigo plant)について


藍染の歴史は非常に古く、古代エジプトではミイラを包む布が藍染されており、紀元前2000年前には藍が利用されていたとされています。

藍の色素を持つ植物も多種多様で、それぞれの地域にあった植物を使用し、さまざまな方法で藍染が行われてきたのです。

日本において、江戸時代に入ってからの服飾は藍一色に塗りつぶされたと言っても過言ではないほど、藍は庶民の身近な色として親しまれてきました。

藍染の原料となる植物の種類

藍の色素を持つ植物は、種類が違っても染料としての主成分はインジゴ(indigo)で、その前駆体ぜんくたい(化学反応などで、ある物質が生成される前の段階にある物質)がインジガンであるという点は一致しています。

世界に産する含藍植物を植物学上の科別にすると、マメ、アブラナ、キツネノマゴ、タデ、キョウトウチク、ガガイモ、マツムシソウ、モクセイ、クロウメモドキ、キク、ヒメハギ、ランなどが挙げられ、その種類は100種以上あるともされています。

このうち、もっとも品種の多いのは、マメ科コマツナギ属で、含藍量も優れており、インド藍はこの種類から生産されます。

代表的な藍植物(indigo plant)

日本において染料に使用された藍植物は、タデ科の蓼藍たであいキツネノマゴ科の琉球藍りゅうきゅうあいアブラナ科のハマタイセイ(エゾタイセイ)、ガガイモ科のアイカズラ(ソメモノカズラ)の4種です。

なお、アイカズラは沖縄に自生し、極めて局所的に利用されてきたに過ぎません。

また、古典に見える山藍やまあいには、青色色素であるインジゴは含まれていません

関連記事:染色・草木染めにおける山藍(ヤマアイ)。山藍の特徴や分布、染色方法と歴史について

蓼藍(タデアイ)

蓼藍,タデアイ

蓼藍,タデアイ

日本では、蓼科たでかの植物である蓼藍たであい(学名:Persicaria tinctoria)が藍染の原料となる植物として主に使用されてきました。

蓼藍たであいの原産地は、インドシナ地方南部やベトナム北部、中国の江南こうなんあたりとされますが、具体的にどこなのかはっきりとしていません。

蓼藍たであいは、稲作や養蚕ようさんの技術とともに中国大陸から日本に渡来したと考えられます。

柴田桂太(編)『資源植物辞典』には、「大宝年間たいほうねんかん(700年頃)に、播磨国はりまのくにが有名な産地であったが、その後摂津におこり、徳川中期以降阿波がもっとも栽培が盛んになり、藍産業を独占した。」とあります。

松江重頼まつえしげより(1602年〜1680年)によって、寛永かんえい15年(1638年)に出版された俳句に関する書物である『毛吹草けふきぐさ』には、藍の産地として「山城やましろ(現在の京都府の南部)、尾張おわり(現在の愛知県西部)、美濃みの(現在の岐阜県南部)」が挙げられています。

上記の地域は、阿波藍あわあいよりも先に藍の産地として有名だったのです。

関連記事:日本における藍染の歴史。藍作・藍染が発展し、衰退していった背景について

蓼藍たであいの栽培は、2月から3月頃に苗床なえどこにタネをまき、4月から5月ごろに畑に定植し、7月ごろに第一回の刈り取りを行います。

刈り取った株からは、葉や茎が再生してくるので、8月から9月ごろに2回目の刈り取りを行うという収穫方法が一般的に行われていました。

琉球藍(リュウキュウアイ)

琉球藍(学名:Strobilanthes cusia)(キツネノマゴ科)Strobilanthes flaccidifolia 3zz

琉球藍(学名:Strobilanthes cusia)(キツネノマゴ科)Photo by David J. Stang, CC BY-SA 4.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/4.0>, via Wikimedia Commons,Link

沖縄では、古くからキツネノマゴ科の琉球藍りゅうきゅうあいが藍染の原料として使用されてきました。

琉球藍は、インドからインドシナ半島、中国南部、台湾、そして鹿児島まで広く分布した植物です。

明治以前の琉球王府りゅうきゅうおうふ時代(薩摩藩さつまはんの藩政時代)は、藍草あいくさ泥藍どろあいの藩外の持ち出しが禁止され、琉球染織品の原材料としてのみ使用されてきました。

歴史的には、明治30年代が最も盛んな時期で、沖縄県では産業政策的に注目し、琉球染織品の重要な原材料として生産振興を図りました。

そのため、藍草あいくさ栽培は、沖縄において本島北部から中南部まで全域的に拡大しました。

しかし、西洋で開発された化学染料のインジゴが実用化されると、その影響を受け、明治時代後半から大正時代にかけては、右肩下がりに生産が減少し、昭和になると第二次世界大戦で壊滅的な打撃を受けました。

やがて社会が落ち着きを取り戻し、琉球絣などの原産染織品が製造されるようになると、徐々に泥藍の需要が戻り、藍の栽培農家が増えました。

昭和40年代には、旧来の藍壺方式あいつぼ(地下に掘り込んだ直径4メートル、深さ2メートルほどの石積み、漆喰しっくい仕上げの椀型わんがたの水槽)による製造設備に変わって、大型の製造施設が整備され、効率的な製造技術が確立しました。

この変化は、泥藍を製造する工程の難しさを解消し、藍生産農家の急激な減少を食い止めることができました。

1972年の沖縄の日本復帰後は、沖縄県産の染織品に対するして国民の関心が寄せられ、それに付随して泥藍の生産も拡大しました。

しかし、勢いは長く続かず、全国的な和装産業の不振も相まって、泥藍の需要も減り、琉球藍の製造農家は、現在では数えるほどになっています。

インド藍

Indigofera tinctoria1

インド藍,Indigofera tinctoria,Kurt Stüber [1], CC BY-SA 3.0 <http://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0/>, via Wikimedia Commons,Link

インドで知られているインド藍は、紀元前2000年前にすでにエジプトで染色に用いられており、ローマ帝国の盛んな頃に、「インディカン」の名前で知られ、6世紀にはペルシャ人によってヨーロッパに伝えられ、シルクロードを通って中国にももたらされたといいます。

マメ科の植物の藍は、日本の本土で古くから栽培されてきたタデアイ(くさの藍)に対して、木藍きあいと呼ばれたりもしました。

熱帯地域での栽培に適した品種であり、インドや中東、アフリカ、マダガスカル、インドシナ、マレーシア、中南米など、広く利用されてきました。

マメ科のコマツナギ属は、Indigofera(インディゴを含む意味)という属名が与えられており、藍の色素を含む植物は、世界的にみてもマメ科のコマツナギ属が種数も多く、量的にも地域的にも最も世界中で栽培されてきた品種といえます。

タイワンコマツナギ(台湾駒繋)(学名:Indigofera tinctoria)は、インドからシンドシナ、台湾や中国南部などに分布し、ポルトガル人によって発見されました。

インド藍は主に、タイワンコマツナギ(学名:Indigofera tinctoria)を表すとされます。

ナンバンコマツナギ(南蛮駒繋)(学名:Indigofera suffruticosa)は、フィリピンやマレーシア、中国南部などで盛んに栽培され、発酵させてから藍錠らんじょうに加工したものが日本にも明治時代の中頃から輸入されるようになりました。

関連記事:染色・草木染めにおけるインド藍。インド藍の種類や歴史、染色方法について

大青(タイセイ)

大青たいせい(漢名:大藍・菘藍)は、アブラナ科に属し、中国が原産地とされ、享保きょうほう年間(1716年〜1735年)に日本に渡来したとされます。

ヨーロッパからシベリアのバイカル湖付近にまで分布するといわれるアブラナ科の越年草である細葉大青ホソバタイセイ(学名:Isatis tinctoria)は、英名ではWoad(ウォード)と言われます。

Isatis tinctoria,細葉大青(ホソバタイセイ),Woad(ウォード)

細葉大青(ホソバタイセイ),Woad(ウォード)Isatis tinctoria,H. Zell, CC BY-SA 3.0 <https://creativecommons.org/licenses/by-sa/3.0>, via Wikimedia Commons,Link

日本では、アブラナ科のハマタイセイ(エゾタイセイ)が北海道の海辺地帯に自生し、ヨーロッパのウォードや中国産の大青たいせいの一変種で、古くからアイヌが利用していました。

【参考文献】『あるきみく117特集阿波藍小話』


コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です