日本最古の染料植物とも言われる山藍について。宮本常一著『塩の道』


昔から、世界中で藍染が行われてきましたが、その原料となる植物は地域によってさまざまです。

日本では、徳島で作られているタデ科の植物である蓼藍(タデアイ)が主に藍染の原料に使われていて、その中でも沖縄では、琉球藍と呼ばれているキツネノマゴ科の植物が藍染の原料として栽培されています。インドではマメ科の植物、ヨーロッパではアブラナ科のハマタイセイという植物であったりします。

その土地の気候や風土にあった植物が藍の原料となっていましたが、タデ藍を使った藍染が日本で一般的になる前は、日本最古の染料植物とも言われるトウダイグサ科の山藍(ヤマアイ)が使われていました。

その山藍に関する記述が、民俗学者であった宮本常一さんの著書『塩の道』に記載されていたので紹介したいと思います。

山藍と蓼藍(タデアイ)について

塩の道』からの引用です。

江戸時代に入りますと、蓼藍が作られるようになります。それまで藍の原料というのは山藍が主であったのです。自然生の、山に生えている藍、それを採ってきて、それで染め物をしていました。これは限られていました。どこに山藍があったのだろうかということで、私は先輩から山藍のあるところについて教えてもらったことがありますが、昔はかなりあったけれど、いまはないということです。

いま残っているのは京都の石清水八幡の森の中にあるのです。それ以外にはあまり目につかない。それほど山藍というのは少ないものなのです。したがって中世の染め物を見ると、藍系統のものはたいへん少ないのです。ところが蓼藍が渡ってきて、日本で作られるようになります。

蓼藍というのは、砂地で作ることが多いのです。藍は根がぐうっと深く入るし、しかも土がよく肥えているところでないと育たない。これの栽培できる土地というのは、たいへん限られていたのですが、徳島県がその適地であったわけです。そして盛んにここで作られるようになります。

関東では深谷の北、利根川べり、そこに同じような土層があります。そこで作られるようになる。渋沢栄一という人は、その藍商人の家に生まれて、若い時には藍の行商で信濃のほうまで旅をしています。あのあたりで作られていたわけです。ところが関東の藍の適地というのはたいへん狭かった。そこで徳島が日本でもっとも大きな産地になってきます。

その藍がみるみるうちにたくさん使われるようになったということは、百姓をしているものは日常赤い色を使ってはいけないということがあったからです。徳川幕府が命令したのではなくて、どうも各藩でそれぞれ金鈴がでたようですけれども、禁色については、ずいぶん江戸時代以前やかましかったものです。

もちろんその時期によって、場所によって、あるいは身分によって、それは変わってくるわけです。赤い色というのは一般の民衆にはほとんど許されなかった。祭りのときならよいとか、特別の日ならよいとかで、日常はそういう色は禁じられた。茶であるとか、あるいは紺であるとかに限られたのです。

石清水八幡の森に山藍が自生していたという記述がありますが、2017年のいま果たして見つけることができるのか、非常に興味深いところです。

藍の栽培には、土がよく肥えている徳島県の土層が適しているとありますが、徳島には吉野川が流れているため、その川が定期的に氾濫していたことが、土がよく肥えた理由に挙げられます。

日本の伝統の染色方法の一つであった藍染めについて、その原料の成り立ちから深く学んでみることも、非常におもしろいです。

階級によって禁色というものが昔あったように、歴史的に人々が色に対してどのように向き合ってきたのかについても、その染色方法から紐解くと、いろいろ見えてくることがあるのではないでしょうか。


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