遊廓(遊里)にあって音曲を仕事とする女性は、江戸では「芸者」といい、京都や大阪では「芸子」といわれていました。
江戸時代の遊廓は、官許が限定的に得られていた場所でもあり、働く遊女や芸者は一般市民とは異なった華美な服装が許されました。
そのため、模様(文様)の創案や新しい着付け、装身具など、遊廓で生まれたとされるものが数多くあったと考えられます。
芸者風俗における服飾・ファッション
芸者風俗においては、一般的に小袖などの着物に新しい流行の模様(文様)や外来(他国)の布地を用い、その財力を誇りとしていました。
芸者は遊女よりは地味な装いを普通としまし、例えば、江戸の新吉原の芸者は縮緬など無地の紋付で模様(文様)入りは使わず、裏は花色(縹色)の絹地を使用しました。
また、遊女は帯を垂らしますが、芸者は結ぶという見た目での分かりやすい差(着こなし方)もあったようです。
京都、大阪、江戸の三都市の風俗について詳しく述べた文献には、江戸時代後期のに成立した『守貞謾稿』があります。
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また、地方都市の芸者風俗に関しては、文化3年(1806年)刊の『筑紫紀行』に詳しく記載されています。
『筑紫紀行』によると、京都の祇園では玳瑁製の櫛や簪を多く挿し、上衣は紫縮緬、裾のあたりは白く玉川に千鳥の飛ぶ模様(文様)を染めていたようです。
下衣は、紅縮緬、または紅、紫などの紋、なかには八丈縞を着る人もいたようです。
帯は、錦やビロードなどが用いられたようです。
兵庫県の室津では、上衣は紗綾(表面がなめらかで光沢のある絹織物の一種)、帯は縮緬、櫛は水牛、簪は銀であったようです。
長崎では岸縞の袷に糸錦の古い帯、または大節の郡内縞に秩父絹の裏の袷、帯は同じく糸錦であったようです。