化学染料は、19世紀以来、近代有機化学の発達によって化学的に合成した染料を表します。
現在、利用されているほとんどの染料は、化学的に合成された染料です。
化学染料の種類
今日の化学染料は化学構造と染色方法によって、2つの方向から分類されます。
染色方法からの分類は、次のようになります。
直接染法・・・直接染料・酸性染料・塩基性染料
媒染染法・・・媒染染料・酸性媒染染料
還元染法・・・建染染料・硫化染料
発色染法・・・ナフトール染料・酸化染料
分散染法・・・分散染料
反応染法・・・反応染料
その他・・・油溶染料・蛍光増白染料・顔料樹脂染料など
化学染料(かがくせんりょう)の歴史
化学染料は、19世紀の中頃にドイツの有機化学者ホフマン(1818年〜1892年)は、石炭乾留の際の副産物であるコールタールが新物質を抽出するのに重要な原料であることを認め、タールからベンゼンを分離しました。
石炭乾留とは、石炭を空気を断って高温に熱して分解し、ガス、タール、コークスなどに分けることを表し、1000℃〜1350℃に熱して行う高温乾留と、500℃〜600℃で行う低温乾留があります。
ベンゼン(ニトロベンゼン)を還元すると油状の物質であるアニリンが得られることは以前から知られていましたが、ホフマンはタールからのベンゼンで多量のアニリンを製造することに成功します。
ホフマンの弟子であったウィリアム・ヘンリー・パーキン(1838年〜1907年)は、アニリン類似のアリル・トルイジンからキニーネを得ようとして失敗しますが、同じ実験をアニリンで行い、紫色の染料を作り出すことに成功します。
パーキンは1857年にこれを工業化し、人造の紫を使用した衣服はイギリスをはじめとして、ヨーロッパに広く流行しました。
この成功に次いで、マゼンダ(フクシン)・黒などが他の研究者によって完成されます。
1863年にはビスマルク茶(ビスマルクブラウン)と呼ばれるアゾ染料が完成し、いずれもすぐに工業化されました。
赤色染料として古代から用いた茜(アリザリン)の人工製造は以前から懸賞がかかっていましたが、1868年〜1869年にドイツの化学者であるカール・グレーベとカール・リーバーマンがアリザリンの化学構造を明らかにし、これによって橙色と赤色の染料であるアリザリン(alizarin)の合成に成功しました。
アリザリンの工業化はドイツのカロ(1834年〜1910年)とパーキンによって研究が進められ、原料のアントラセン(anthracene)は石炭ガス工業の副産物であり、人工のアリザリンは安価であったため、たちまち天然の茜に関わる産業は滅びました。
天然の藍染めの主成分であるインディゴ(indigo)の構造では、ドイツの化学者であるアドルフ・フォン・バイヤー(Johann Friedrich Wilhelm Adolf von Baeyer,1835年〜1917年)によって1883年に研究の末、合成されました。
その後、インディゴ合成の工業化をめぐって、世界中でし烈な競争が繰り広げられるなか、 1897年に工業レベルでの製造に成功したのは、ドイツの染料メーカーであるBASF社でした。
最初は合成藍(インディゴ)の生成方法が複雑でコストが高かったですが、ホフマンは17年間の研究の結果ようやく工業化に成功し、原料の無水フタール酸を安価に製造する方法が知られたので、合成藍(インディゴ)は、1897年に市販されるようになりました。
これによってヨーロッパにおける天然藍を扱う業者に大きな打撃があり、インド藍の取扱いも減っていきます。
有機物を硫化アルカリで処理して得られる硫化染料は、1873年にクロワサンとプルトニェールによって緑色染料として発見されます。
1893年にビダルはフェノールの窒素誘導体から、黒色染料を得ました。
木綿を染めるためのメチレン青(メチレンブルー)は、1876年にカロによって発見され、1878年にはフィッシャーがマラカイト緑(マラカイトグリーン)を発見します。
最初の直接染料であるコンゴー赤(コンゴーレッド)は、ドイツのバイエル社の従業員だったパウル・ベッティガーにより、1883年に初めて合成されました。
ベッティガーは、媒染が必要ない染料を研究していましたが、バイエル社がこの染料に興味を示さなかったため、ベッティガーは個人名義で特許を取得し、ベルリンのAGFA社に売却します。
AGFA社は、この染料を「コンゴーレッド」という名前で販売しました。
1899年にはR・ボーンがインダンスレン染料(スレン染料)を発見します。
インダンスレン染料(スレン染料)は、製造法が複雑なために高価な染料で、色調は黄〜黒と広く、特に日光、洗濯に対する堅牢度が高いです。
以上の化学染料の多くは、ドイツ系の化学者がイギリスでの研究で発見したもので、19世紀の末にこれらのドイツの化学者が帰国して染料工業を建設し、ドイツはイギリスの染料工業をはるかに抜くことになります。
1914年には、イギリスの化学染料は国内でも20パーセントしか用いられず、ほとんどがドイツで作られた染料でした。