藍色」カテゴリーアーカイブ

愛染明王(あいぜんみょうおう)とは?愛染明王が藍染・染色業者に信仰されるようになった理由

古くから、職人と呼ばれる手工業者たちは、守護をしてくれる神仏をまつっていました。

同業者同士で信仰のための組織である「こう」を結成する場合も、数多くありました。

こう」においては、神仏の信仰だけでなく、同業者同士、技術の向上や保護を目的に活動したり、互いの結束を強める役割もありました。

染色職人、とりわけ藍染に関わる人々は、仏教の愛染明王あいぜんみょうおうを信仰し、同業者が集って、「愛染講あいぜんこう」を結成していました。

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出雲祝風呂敷(いずもいわいふろしき)とは?出雲祝風呂敷の歴史や技法について

島根県の出雲いずも地方では、婚礼の際に、嫁入り風呂敷を持っていく風習が、古くから伝わっていました。

風呂敷といっても、一般的に使用されるような簡易な風呂敷ではなく、慶事けいじ(おめでたいこと)にふさわしい品格のあるものです。

出雲祝風呂敷いずもいわいふろしきとは、婚礼の際の嫁入りの際に、伝統的に用いられる筒引つつびき(筒描き)された藍染風呂敷のことを表します。 続きを読む

蓼藍(タデアイ)

正藍冷染(しょうあいひやしぞめ)とは。正藍冷染(しょうあいひやしぞめ)の染色技法について

宮城県栗原郡栗駒町に伝わる「正藍冷染しょうあいひやしぞめ」という技法は、どの地方においても見られない特徴的な藍染です。

一般的に行われている藍染は、藍甕あいがめのなかに、アルカリ分の木灰の上澄み液である灰汁あくを入れ、蓼藍たであいの葉を発酵させて作った原料のすくもと小麦の外皮を煮出した糖分などを混ぜ、人為的に加温して発酵させます。 続きを読む

藍染の原料である蒅(すくも)

【藍師・水師七悪】藍師が蒅(すくも)づくりにおいて注意をしていた点

藍染の原料となるすくもは、収穫した蓼藍たであいの葉を乾燥させ、水をかけかき混ぜる作業を挟みつつ、約100日以上の発酵期間を経て出来上がります。

すくもづくりにおいては、良い葉藍を栽培することが何よりも大事とされていますが、それと同じくらいに、乾燥葉をすくもと呼ばれる状態にするまでの発酵期間も重要です。

藍の葉を発酵させる際に注意する点として、「藍師あいし水師みずし七悪」という言い伝えがあります。 続きを読む

勝色と言われるような色目の布尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

藍染における勝色の由来とは?武将にとって藍染は縁起の良い勝染めであった

藍は、古くから世界各地で使用され、人々に一番愛されてきたともいえる植物染料です。

日本人にとって、古くから藍染の青は身近な色のひとつで、全国各地に藍染をする紺屋こうやがありました。

明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先のきさき暖簾のれんなどを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。

東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けました。 続きを読む

勝色と言われるような色目の布尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

青縞(あおじま)と呼ばれる藍染された布。埼玉における藍の栽培と藍染について

青縞あおじまと呼ばれる藍染された布は、埼玉県の北東部に位置する加須かぞ市や羽生はにゅう市を中心に盛んに織られていた生地です。

青縞あおじまと呼ばれる理由としては、綿糸めんしを藍染し、染め上がった糸を織ると、染めムラが独特の縞模様に見えることからその名前があります。

青縞あおじまは、仕事着である野良着のらぎ股引ももひき脚絆きゃはん足袋たびなどに使用され、江戸時代は主に農家の副業として青縞あおじまが生産されていました。

尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

尾州紺木綿『江戸・明治藍の手染め』愛知県郷土資料刊行会

天明てんめい年間(1781年〜1789年)に北埼玉郡騎西町きさいまち付近(現在の加須かぞ市)で農家の副業として織られたことから、この土地の名前に由来し私市縞きさいじまと呼ばれたようです。

明治以降は織物をつくる事業家(機業家きぎょうか)によって、生産、発展してきました。

元々は、天然藍のみが使用されていましたが、明治30年(1897年)頃からは、化学藍(インディゴピュア)が使用され始めました。
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藍染された木綿糸(先染め)

藍作・藍染と木綿の深いつながり。共に発展し、衰退していった歴史

明治8年(1875年)に、東京大学の初代お雇い教師であったイギリスの科学者であるロバート・ウィリアム・アトキンソン(1850年~1929年)が来日した際、道行く人々の着物や軒先のきさき暖簾のれんなどを見て日本人の暮らしの中に、青色が溢れていることを知りました。

東京を歩き、日本人の服飾に藍色が多いのを見て驚いたアトキンソンは、明治11年(1878)『藍の説』を発表し、藍に「ジャパンブルー(JAPANBLUE)」と名付けました。

日本中の庶民にとって大切にされてきた、藍染の衣類。

藍染が日本に広がった理由として、木綿との非常に密接な関係がありました。 続きを読む