紅花系統で染められた色は、時間とともに色合いが淡くなると青味を増す傾向があり、その淡紅色や淡紫色は「聴色」という言葉で呼ばれることがありました。
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色合いにおける聴色(ゆるしいろ)
紅花の色の美しさは、古代から人々を魅了してきましたが、特に平安時代の貴族達の紅への執着は王朝文学などから見てとれます。
もともと茜染が庶民のものであったのに対して、紅染は上流階級の人々のためのものとされ、奈良時代から平安時代にかけては、「宮中の流行色」となっていたようです。
紅花,Carthamus tinctorius,Pseudoanas, Public domain, via Wikimedia Commons,Link
紅染の赤は、その希少性から非常に高価なものであったため、平安時代には濃い紅染の使用は禁止されていました。
そのため、基準ははっきりとはしませんが、「聴色」として認められた淡い薄紅色は、着用が許可されていたと考えられます。
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紅花で染めた淡い色合い
紅花で染めた淡い色合いは、一斤染(いっこんぞめ)とも言われていました。
一斤染という名前の由来としては、紅花一斤(180匁・約675g)で、絹織物の2反分(一匹・疋)を染めたものという意味でこの名前があります。
『延喜式」の「中紅花」色の程度の淡い紅色で、「桃花色」よりはやや淡く、「桜色」よりやや濃い程度の色が一斤染で染めた色合いとなります。
紅花で染めた色合いで、最も濃い色を「韓紅花」と呼び、もっとも淡い色を「退紅」などと呼ばれます。
平安時代にまとめられた三代格式の一つである『延喜式』に記載される退紅は、聴色と同じような紅染とされます。
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色合いにおける禁色(きんじき)
聴色ができるということは、身分や位によって着用してはいけない色合いである「禁色」が時代によって決められていました。
禁色は、大別すると3種類の禁止の仕方がありました。
関連記事:衣服規制(いふくきせい)・服飾規制 (ふくしょくきせい)、禁色(きんじき)について。身分や地位、職業などによって衣服の素材や色、形、着用する場所などを規定した「 服制・衣服令」について
①当色、すなわち位階に応じて定められた位色より上位の色の着用を禁じる
8世紀初頭の衣服令で、皇太子は黄丹、臣下は紫、蘇芳、緋などの順に位色が定められ、自分の位にあたる色よりも上級の色を着用することが禁じられていました。
そのため、身分によって禁色となる色と数が異なっていくのです。
②平安時代、特別の色を決めて禁色とした
平安時代には「特別な色」が定められ、例えば、天皇の黄櫨染と呼ばれる色名や上皇の赤色、皇太子の黄丹、一位の深紫や、これらの色に似ている深緋や深紅、梔子色などがありました。
黄櫨は、平安時代の初期、弘仁6年(815年)に現れた服色の名前で、弘仁11年(820年)に天皇の服色となりました。
黄丹も黄櫨と同様に禁色とされ、当初は皇族全般の色彩でしたが、奈良以降から皇太子の色彩となりました。
平安時代中期以降は、禁色のルールが崩れ、青色や深紅、深紫が禁色とされていました。
③織りで模様(文様)を表現された布も一般的に禁じられる
平安時代中期ごろから、織りで模様(文様)を表現された布(有文の織物)も一般的に禁じられました。
一般的に上記の①と②が禁色と呼ばれているもので、禁色を着用できることを「禁色を聴さる」「色を聴る」などといい、天皇の宣旨(天皇の命令を伝える文書)を必要としました。
女﨟や女房の装束でも、青色、深紅の織物などは勅許を得たものしか着用できませんでしたが、『栄華物語』などの記述においては、平安時代後期以後は禁令もあまり守られてはいなかったようです。