「衣服規制(いふくきせい)」とは、着用する衣服に関して定められた制度や法令のことで、「服制」や「衣服令(えぶくりょう)」などと言われます。
衣服規制の名残りは、暗黙の社会的ルールやマナーになって、儀礼服を中心として根強く存在しているものもあります。
目次
衣服規制(いふくきせい)・服飾規制 (ふくしょくきせい)、禁色(きんじき)
衣服規制(服飾規制)は、身分や地位、職業などによって衣服の素材や色、形、着用する場所などを規定し、社会的秩序を守るために規定されました。
衣服規制は、人類が国家のような形で集団を形成し始めた古代から近代まで、さまざまな内容で存在してきました。
紀元前12〜13世紀の中央アジアのアッシリア帝国や古代中国の周王朝などで、すでに衣服規制が行われていたという記録が残っています。
日本における衣服規制
日本においては、飛鳥時代(592年〜710年)から奈良時代(710年〜794年)にかけて、個人の地位や身分、序列などを表す位階を、冠や衣服の色によって差異を付ける制度である「衣服令」が存在していました。
この制度は、中国の唐代の服飾に影響されて制定されたもので、603年の「冠位十二階」、647年の「七色十三階制」、701年の「大宝律令」などいくつかの服色制を経てきました。
603年に制定された冠位制度である「冠位十二階」は、朝廷に仕える臣下を12の等級の序列に分け、地位を表す色別に分けた冠を定めたもので、最高の地位を表すのが紫色でした。
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江戸時代には、「奢侈禁止令」としての衣服規制が度々発令されました。
1683年には、江戸幕府が「金紗、縫、総鹿の子を禁ず。銀200匁以上の小袖を禁ず」というお達しを出しました。
各藩でもそれぞれの「衣服規制」が行われる場合があり、例えば九州の久留米藩では1679年に「衣服は木綿のほか着るべからず」との規制がありました。
薩摩藩では、享保5年(1720年)、奄美の島々に対して「絹着用禁止令」を出し、島の役人以外の一般島民に絹着用を禁止し、すべて税として薩摩藩に納められていました。
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ヨーロッパにおける衣服規制
イギリスでは、エドワード4世(在位1461年〜1470年)の時代に「年間所得40ポンド以下の者は毛皮、金銀の装飾を禁ず」という規制が出されました。
ドイツでは、1486年に「農民は手袋と短剣を着けてはならない」との規制が出されています。
ベルギー(フランドル)では、1545年に「農民は絹の胴着、外着を着てはならない」などという規制が出されました。
着用する色を禁じる禁色(きんじき)
上記の「衣服令」のように、服の色合いによって着用が禁じられていました。
例えば、黄櫨、黄櫨染と呼ばれる色名があります。
黄櫨は、平安時代の初期、弘仁6年(815年)に現れた服色の名前で、弘仁11年(820年)に天皇の服色となりました。
黄丹も黄櫨と同様に禁色とされ、当初は皇族全般の色彩でしたが、奈良以降から皇太子の色彩となりました。
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高貴な色、紫
紫色は、その希少性から世界中のさまざまな場所で、高貴な色・尊い色に位置付けられていました。
例えば、地中海沿岸では貝紫による紫の染色があり、その希少性から王侯貴族を象徴する色とされて、ギリシャやローマへと受け継がれました。
中国では、戦国時代頃から紫色は覇者の色とされており、前漢の時代(紀元前206年〜8年)には皇帝が使用する色として、他の者の使用は禁じられていました。
日本においては、飛鳥・天平時代以後においては、上記の『衣服令』などにおいても紫色は、天子・皇太子を除いて、臣下としては最高の位の人が用いた衣服の色となっていました。
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