織物には基本とされる構造があり、平織り、綾織り、朱子織は、三原組織と呼ばれています。
綾織物(twill fabric)は、「斜文組織の織物」で、経糸と緯糸が交差する組織点を斜めに連続させたもので、布面には斜めに走る線が現れます。
目次
綾織(あやおり)の特徴
綾織(Twill weave)は、経糸と緯糸がたがいに二本以上飛んでは交差させることで、斜め方向に畝を表現したものです。
この盛り上がった畝を、綾目、もしくは斜文線と呼び、綾織は、斜文織とも言い表します。
綾織の特徴としては、以下のようなものが挙げられます。
- 平織りに比べると、布地の質(地合い)少しやわらかい感じになる
- シワがよりにくい
- 糸の密度が増えることで、光沢感がある
- 平織りに次いで、着尺地(大人用の着物1枚を作るのに必要な布地)や裏地、服地、ふとん地など広く用いられる
- 平織りと比べると、摩擦に弱い
綾織物の種類
綾織物(twill fabric)は、斜文組織のでき方によって、さまざまな種類と名前がつけられています。
- 正則斜文・・・斜文線の角度が45度になっている綾組織
- 急斜文・・・斜文線の角度が、45度以上の急角度になっている綾組織
- 緩斜文・・・斜文線の角度が45度以下のなだらかな綾組織
- 破れ斜文・・・綾目がつながらないようにした、デニムなどに使われる変化組織の綾織り
- 飛び斜文・・・正則斜文をある一定の糸数だけ連続させて、つぎに数本分とばして、さらに、数本分連続させる工程を繰り返しす綾組織
- 山形斜文・・・右上がりの斜文線と左上がりの斜文線の方向を交互にかえて山形つくる綾組織
- 網代斜文(檜垣綾/組斜文)・・・斜文織りをさまざま組み合わせて作ったもので、その組合せが網代(木や竹、草などの植物を、細く薄く加工した物を材料として縦横交互に編んだ物)のような形になる綾組織
- 昼夜斜文・・・昼夜織で織られた綾組織
- 両面斜文・・・経糸と緯糸のあらわれ方が、生地の表裏とも同じ見え方のもので、斜文線の方向は裏表で逆になっている綾組織
- 片面斜文・・・生地の表裏で経糸と緯糸のあらわれ方が異なる綾組織
綾織で模様(文様)を作る綾文(あやもん)
綾織の組織によって織り出された模様(文様)を綾文といいます。
一色(単色)でも糸の使い方の変化によって、光のあたり具合で模様(文様)が浮き上がって見えます。
模様(文様)の織り上げ方の基本的な技法は、数種類あります。
- 平地浮文綾・・・平織の経糸の一部を規則的に浮かせて模様(文様)を織り出す。菱文(菱形を基本形とする幾何学文様の一種)や亀甲文(六角形を縦横一面に並べた柄で、亀の甲羅に似ていることからが「亀甲」の名前が付けられた)などが織り出される
- 平地綾文綾・・・平地に綾織りで模様(文様)を織り出す。幾何学文(直線や曲線を組み合わせた抽象的な柄)や連珠円文(数珠状に連なった珠が円を描く柄)、花文(花柄)、唐草文(植物の花や葉の形をツル状の曲線でつないだ柄)などさまざま織り出される
- 平地変り綾文綾・・・平地綾文綾の変化型
- 綾地綾文綾・・・地も模様(文様)も綾織で織り出す。地が経4枚綾で模様(文様)を緯4枚綾にした綾地異向文綾や、地を経3枚綾で模様(文様)を6枚綾で構成した綾地同向文綾、地を経3枚綾で模様(文様)を任意に浮かせた綾地浮文綾などがある
法隆寺伝来のものには、平地浮文綾や平地綾文綾が比較的多くあります。
正倉院宝物には、綾地綾文綾の裂が多く残っています。
平地浮文綾では浮糸が不揃いなため、あまり大きな模様(文様)を織り出せませんが、平地綾文綾や綾地綾文綾では大きな柄も織ることができます。
綾織りとデニム生地
綾織りで織られた代表的な生地に、デニム(denim)があります。
デニムとは生地の名前であり、綾織りで織られた厚手の綿織物を指します。
綾織りにも左右の向きがあり、織物の表に見える畝が右肩上がりになっているのが右綾で、生地が伸びにくい特徴があります。
畝が左肩上がりになっている左綾は、右綾に比べると糸の織り込みがいくらか甘くなり、生地の風合いが柔らかく、体に馴染みやすいのが特徴としてあります。
色落ちに関しては、右綾の方が、色落ちが激しいとされます。
有名デニムブランドの生地においては、リーバイスは右綾、ラングラーやリーは左綾となっています。
ジーンズ(jeans)は、デニム生地を主に使用して作られたパンツのことを指しますが、デニムという言葉も、生地そのものから解釈が広がり、デニム生地で作られた衣類を表すようにもなりました。
デニム生地は、経糸に色糸(インディゴ染めをされた太番手の糸)を使用し、緯糸には経糸より少し細くて白い(晒された)糸を使用します。
日本における綾織(あやおり)の歴史
奈良時代に編纂(編集)された日本神話や古代の歴史を伝えている歴史書である『古事記』と『日本書紀』(記紀)には、「阿知使主(4〜5世紀ごろ、応神天皇の時の朝鮮からの渡来人)を祖として、大和国(現在の日本)を本拠にもつ漢氏たちが朝鮮伝来の綾織技術を業とした」というようなことが記されています。
綾織された遺品のうちでは初期の例としては、法隆寺献納宝物(法隆寺に伝来し、明治11年(1878年)に当時の皇室に献納された、300種類ほどの宝物(文化財)の総称)の中に、広東幡の足に用いた織物があり、山形文や亀甲文の平地浮文綾が織り出されています。
参照:上代裂の技法と文様の変遷
長岡京から平安京へと「平安遷都」が行われた際、京都の西北に織部司が設けられ、織工(しょっこう)達はこれに仕え、高級な織物を作っていました。
織部司が中心となって各地で技術指導を行い、綾は日本全国から献上されました。
法隆寺や正倉院の遺品や目録のからも、多様性を見ることができます。
関連記事:正倉院裂(しょうそういんぎれ)とは? 正倉院宝物として保存されている裂(布きれ)について
この頃、経糸によって地と模様(文様)を織り出す古来の経錦(けいきん)変わって、緯糸によって地と模様(文様)をつくる緯綿(ぬきにしき)が盛んに作られるようになり、その影響によって唐花や唐草などの大きな模様(文様)を表現できました。
奈良時代末期には、三枚綾、六枚綾の組織が現れ、地と模様(文様)が同一方向に流れるものや文様を浮かせたものなど、綾織物の典型と言える組織があらわれはじめます。
平安時代には、中央の織部司の独占力が弱まり、綾織師は貴族たちの注文通りに綾を生産しました。
織の技術は前代の手法を受け継ぎますが、文様はさらに多種多様の変化が生まれます。
例えば、以下のような遺品が残されています。
- 入子菱文白綾
- 小花文赤綾
- 菱文黄綾
- 唐草文白綾
- 花文白綾
- 立菱文白綾
- 唐花文紅綾
唐(中国)から持ち帰られたとされる国宝の「犍陀穀糸袈裟(七条綴織袈裟)の横被(僧呂が七条以上の袈裟を掛けるとき、別に右肩に掛ける長方形の布)には、緋色の綾に大蓮華文が浮き上がり、当時の綾織の遺品としては代表的なものとされます。
平安時代中期以降は、地を経三枚、文様を緯六枚の綾にした固地綾や、緯を文様の部分で浮文にした浮文綾などへと移行し、経と緯との色を変えて、緯違いで文様を出すという新しい技法が生まれました。
これが二重織物で、地紋を綾で織り出し、その上へ文様が浮織りされたのです。
平安時代末期の保元(1156年〜1159年)、平治(1159年〜1160年)の頃、朝廷の権威は衰えて、織部司はほとんど廃止され、京都の機織は、官営から民間事業へと移行していきました。
近世の文様織物には、平織地に文様を経糸で斜文組織にする紗綾(平地綾紋織)があります。
【参考文献】
- 『草人木書苑 染織大辞典1』
- 藤原裕(著)『教養としてのデニム』