紙布は、江戸時代頃から、全国の紙の産地で織られていたようで、特に有名だったのが宮城県の白石市です。
白石は、仙台の仙台藩(伊達藩)の統治下にあった城下町です。
この地方では、東北という寒い地域でもあったため木綿の栽培に適さず、藩の財政上の理由から綿の買い入れも禁止されていました。
しかし、和紙の原料としての楮の栽培には適していたことから、楮栽培が奨励され、紙布の製織(織物を織り上げること)を武士の手内職として認められていたのです。
江戸時代は貨幣経済が浸透してきたことから、商品作物や各藩の特産物として換金作物の栽培が推奨され、特に重要な作物は「四木三草」と呼ばれました。
四木は茶、楮、漆、桑、三草は藍、紅花、麻のことを指します。
目次
紙で織られた紙布(しふ)
紙の製法が日本に伝えられたのは7世紀初頭とされ、紙の染色も古くから行われていました。
奈良時代(710年〜784年)には、装潢師という人々が、書物を書き写すために使う和紙の染色や紙継ぎなどを職業としていました。
関連記事:和紙を染める方法と色紙の歴史。漉染め、浸け染め、引き染め、吹き染めについて
紙布が織られるようになったのは、江戸時代に入ってからだとされますが、年代ははっきりとはしていません。
紙布の特徴としては、丈夫で軽く、織る方法もさまざまに工夫され、縮緬や絽、紅梅(高配織・勾配織)なども織られています。
庶民の衣類に用いられたのは、経糸に木綿糸を使用し、緯糸に使い古された紙を紙糸にしたもので、一片の古い紙も無駄が許されなかった封建時代(鎌倉時代から明治維新までの武家支配時代)の庶民の暮らしのなかから生まれた生活の知恵ともいえます。
紙布(しふ)の種類
紙布は、その製造方法によって3種類に区別できます。
経糸、緯糸ともに紙糸で織ったものを「諸紙布」といい、主に夏用の帷子(裏をつけない衣服の総称)や帯芯(帯の形を保つために芯として入れる厚い綿布)などに用いられました。
経糸に絹糸を使用し、緯糸に紙布を用いた「絹紙布」は、夏用の羽織や帯などに用いられました。
また、経糸に木綿糸を使用し、緯糸に紙布を使った「木綿紙布」は、浴衣や敷物などに用いられました。
紙布の製造方法
紙布の製造方法としては、四つ折りにたたんだ楮紙(こうぞがみ)を切れ味鋭い包丁で等間隔に細かく細断します。
細長く細かく裁断した紙に適度な湿り気を与えるために、濡れているむしろに包んで一晩寝かせておきます。
チャッケー石と呼ばれる凸凹の石の上に広げて1本1本が丸みを帯びるまで、静かに丁寧にもんで(紙もみ)いきます。
紙もみが終わったら糸積みをして、1本の糸にしていきます。
糸車を用いて左右同時に撚りをかけ、錘に巻き取って紙糸ができあがります。
機織りは、高機を使用して、他の織物と同じように織っていきます。
染色は、媒染や補強のために豆汁を用い、石灰水に浸してから乾燥させ、乾いてから植物染料で浸染(ひたしぞめ)をします。
関連記事:染色・草木染めにおける豆汁(ごじる)の効用。豆汁(呉汁)の作り方について
紙子(紙衣)
紙布に似たものに、紙子(紙衣)と呼ばれるものがあります。
紙子は、一般的には和紙にこんにゃく糊、または柿渋を塗り、乾かすことを繰り返しながら紙をもみあげ、さらに露にさらして柿渋の臭みを除いて作りあげたものです。
そのため、紙子は、紙布のように、紙糸を使って織り上げたものではありません。
紙子の染色には、型染めや更紗染めを施したものもあったようです。
紙子の発生は宗教的な意味をもっていたとされ、奈良東大寺の二月堂で行われる法会のひとつである修二会の際には、紙衣(かみこ)を着用する伝統が伝承されています。
この行法に参加する僧は、手漉き和紙に綿の裏地を付け、袷 の着物に仕立てた紙衣(かみこ)を着用します。
紙衣(かみこ)が修二会に使用されてきた理由としては、白い紙が清浄を表すことから清浄衣として着用し、また、寒さを防ぐ防寒衣として白衣の上に着用されています。
修二会の際は、身につけるものは植物と鉱物から出来ている製品は許されますが、絹や毛など動物性のものは身につけてはいけないとされ、また修二会が終わり次第、焼却して納められることから、環境にやさしい素材でなければならないようです。
加賀紙子(かがかみこ)
石川県金沢市二俣地域で作られる加賀紙子は、原料に「しこうぞ」と呼ばれる長繊維の楮と「まこうぞ」と呼ばれる短繊維の楮が使用されます。
紙を漉く技法は、十文字漉き(じゅうもんじすき)と特色とし、これは漉槽で紙漉き簀を用いて紙料をすくい、横→縦→横→縦と何回か繰り返して漉く方法です。
乾燥した料紙をもんで、帯や帯締め、小物入れなどが主に作られていました。
【参考文献】:「奈良東大寺修二会に用いられる紙衣の研究」