絞り染めとは、部分的に布に染まらない部分を作る防染の技術です。
布の一部を糸で強く巻き締める「巻き締め」や、針と糸で布を縫い、その糸を引き締めることによって防染する「縫締め」と呼ばれるものが基本的な技法です。
竹皮やビニールなどの防水性のあるものを使用して括ったり、棒などに布を巻きつけて防染する方法などもあります。
絞り染めは日本のみならず、インドや中国の国々をはじめ、中南米、東南アジア、アフリカなど世界中で行われ、さまざま柄が染められていました。
目次
日本における絞り染めの歴史

京鹿の子絞りの匹田文(ひったもん)が型染めで表現された布
絞り染めの技法は飛鳥時代や奈良時代の頃に中国から伝えられたものですが、さらにそこからさかのぼると、絞り染めはインドが発祥とされます。
日本において、いわゆる絞り染めのような技法は奈良時代の最盛期にあたる天平時代(729年〜749年)に「纈」、「目交」、「目結」などと呼ばれ、すでに行われていました。
日本で古くから行われてきた三種類の染色技法をまとめて表す言葉に「三纈」がありますが、板締めの「夾纈」、ろうけつ染めの「臈纈」、そして絞り染めは「纐纈」がそれに含まれます。
平安時代頃には、目纈、纈帛、括染、くくし染、結幡、目染、取染、目結などという絞り染めの名前が記録に残っており、技法もさまざまあったと考えられます。
室町時代末期から安土桃山時代(1573年〜1603年)にかけて流行した文様染めで、日本の染め物を代表するものである辻が花は、幻の染物と呼ばれ、その基本的な技法は絞り染めです。
絹地に絞りを施したもので代表的なのが京鹿子で、麻布や木綿を絞ったもので特に有名だったのが有松・鳴海絞りです。
江戸時代には、鹿子絞りが全盛期となり、全体を鹿子絞りにした総鹿子の小袖が流行したことでしばしば奢侈禁止令の対象になっていました。
日本各地で絞り染めが行われ、有松、豊後、博多、甘木、姫山、白根など産地がありましたが、今日に残るものは非常に少なく、有松絞りだけは江戸時代初期から現在に至るまで木綿絞りの産地として有名です。
盛岡や秋田では、紫根染や茜染で絞り染めが行われ、大桝絞、小桝絞、立湧絞などが多く表現されました。
絞り染めの発展に貢献した木綿と藍染
江戸時代になり、絞り染めの発展に大きく関係していたのは、木綿と藍染の普及です。
適度な浸透力があり、針で縫いやすい材料である木綿は、絞り染めをする素材に適していました。
木綿が普及する以前に一般的に着用されていた麻は、素材に張りがあるため、細かな縫い絞りは難しかったのです。
浸透力がそこまでなく、布に染み込みにくいという藍染の特徴は、絞り染めをした布を染めるのに適していました。
また、藍染は絞り染めに適した素材である木綿と染色における相性がよく、染まりが良かったという点も絞り染めが発展した理由として挙げられます。
絞り染めの産地としての有松
有松と鳴海は、ともに旧東海道五十三次の宿場町ですが、有松で絞り加工されたものが、賑やかな隣町の鳴海で盛んに販売されたため、「鳴海絞り」の名で全国的に有名になりました。
このことは、安藤広重の「東海道五十三次・鳴海の宿」の江戸浮世絵の中にもみることができます。
東海道五十三次の宿場町であった鳴海宿で道中土産として売り出された有松・鳴海絞りは、江戸時代初期に行われるようになった木綿の藍染絞りを特色として発達していきました。
有松絞りの発祥は、江戸時代初期の慶長年間(1596年〜1613年)に、竹田庄九郎(1590年〜1662年)が旅人にお土産品として、蜘蛛絞りの手拭いを染めたことに始まるとされています。
慶長15年の名古屋城築城に際して、その工事にあたっていた豊後(現在の大分県)の人が紋染された衣服を着ていたことにヒントを得たとされ、絞り染めの生産地である有松の道を切り拓いた人として尊ばれてきました。
また、有松の地に移住してきた豊後(現在の大分県)の医師であった三浦玄忠の妻によって、豊後の絞り技法が伝えられ、これが絞り染めの技法の一つである「三浦絞り」の由来です。
なかでも有松絞りを有名にしたのは、明治時代になってから鈴木金蔵によって考案された嵐絞りです。
絞られた模様が斜線を表現していて、嵐の時の横なぐりの雨のような様子であることから、嵐絞りと名付けられました。
有松絞りは、もともと浴衣や手拭いなどの木綿の絞りとして発達していきましたが、時代とともに京都の絹織物にも影響を与えていきました。
有松絞りの商人(絞商)には、尾張徳川藩の保護のもと数々の特権が与えられ、歴史的には比較的固定した業者が古い歴史を持ちながら存続してきました。
自社で絞り染めの商品を製造しつつも、卸売も行う事業者(製造卸問屋)は「絞商」などと呼ばれ、直接の加工は各専業の業者に任せたりと、絞り製品の製造において中心的な存在を担っていました。
絞り染めの染色技法や種類
有松絞りにおいて、行われていた絞りの種類と技法は数多くあります。
大別すると、縫い絞り、鍛絞り(筋絞り)、蜘蛛絞り、三浦絞り、鹿子絞り、巻き上げ絞り、板締め絞り、嵐絞り、箱染絞り、桶絞りなどが挙げられます。
全ての絞り染めの技法を数えると、200種類以上になるとも言われます。
絞りに使用する糸は、締めやすく、切れにくいものを使用することが前提として扱いやすい糸を選ぶ必要があります。
木綿の生地を絞る際は、20番手のカタン糸(綿糸)、絹などの薄地の素材には40番手のカタン糸(綿糸)が標準的に使用されます。
縫い絞り(ぬいしぼり)

白影絞り(しらかげしぼり),亀甲文(きっこうもん),絞り染め
下絵に沿って針を縫い、最後に糸を引いて締める方法で、自由に柄を表現でき、平縫い絞りや、杢目絞り、白影絞り(折縫絞り)などがあります。
鹿子絞り(かのこしぼり)

鹿子絞り(かのこしぼり)
鹿子絞りは、小形の白い丸形がまばらに散ったような絞り柄です。
名前の由来としては、鹿は生後2年くらいの間、敵から見つからないようなカモフラージュのため栗色の体の表面に白い斑点が多くでき、それに似た絞り柄であることから「鹿子絞り」名付けられました。
全体を鹿子絞りにしたものは、「疋田鹿子」や「総疋田」、「総鹿子」、「滋目結(重目結)」などと呼ばれ、平安時代末期には、武士の水干や直垂などの衣服に用いられました。
江戸時代には非常に流行したため、たびたび奢侈禁止令の対象にもなっていました。
関連記事:鹿子(かのこ)絞りとは?鹿子絞りを全体に施した疋田鹿子、総疋田、総鹿子について
蜘蛛絞り(くもしぼり)

蜘蛛絞り(くもしぼり)
蜘蛛絞りは、布を糸で細かく巻きあげて絞る技法で、最も単純な絞りとも言えます。
染め上がった形が蜘蛛の巣に似ていることから「蜘蛛絞り」という名前があります。
嵐絞り(あらししぼり)

嵐絞り(あらししぼり)
嵐絞りは有松絞りの代表的な技法で、明治12年(1879年)に鈴木金蔵が発案し、特許を取得し、のちに改良が重ねられました。
嵐の時の雨のような細かい線が模様として表現されるため、「嵐絞り」という名前が付けられました。
長尺(4.2m、直径10cm〜20cm)の丸太棒に布を巻き付け、これに糸をかけ、布を押し縮めたものをそのまま染めていました。
糸を布に巻き付ける間隔や糸の太さ、布を押し縮める加減によって、数多くの模様が染められます。
桶絞り(おけしぼり)
桶絞り(桶染め)は、その名の通り、桶を使用した絞り染めの技法をいいます。
この絞染用の桶は、直径37cm、高さ24cmほどの一般的な桶を使用し、桶の口縁(縁の周辺)の部分に染める布を外側に出して並べ、防染の部分の布を桶の中に入れて、堅く蓋を染めます。
桶をそのまま染料中に浸し、模様によっては、一つの桶に1反〜4反くらいまで入れたようです。
桶染めは、京都、桐生、そして有松などで染められていました。
芥子玉絞り(けしだましぼり)
芥子玉絞りは、蝨絞り(しらみしぼり)ともいわれ、ケシの種子(芥子玉、芥子粒)のように小さい粒模様(文様)のみを濃色に染めたものです。
江戸時代後期に出版された三都(京都・大阪・江戸)の風俗や事物を説明した一種の百科事典である『守貞謾稿』のにも芥子玉絞りの名前がみられ、古くから活用されてきた絞りの技法です。
型染めで絞り染め柄を表現する技法

絞り染め柄に彫られた伊勢型紙
貞享(1684年〜1688年)から元禄(1688年〜1704年)の頃、歌舞伎役者が考案した型染めした鹿子を「江戸鹿子」と称したのに対し、京都で生産される本来の手絞りの鹿子を「京鹿子」と呼んで区別していたように、絞り染めの柄を型染めで表現する工夫がされていました。
型染めで絞り染めの柄を表現した理由としては、主に2点挙げられます。
一番大きな理由としては、絞り染めの手間を省くためで、一度絞り柄を彫った型紙を作ってしまえば、何度も同じパターン(柄)で染色することができました。
特に手間のかかる鹿子絞りのようなものは、「型鹿の子」とも呼ばれるように、型染めで鹿子絞りを表現する工夫がなされていました。
型染めで絞り染めの柄を表現した理由の二つ目としては、絞り染めでは表現できないような「絞り柄」を型染めを用いることで表現できる点です。
型紙を使用することで、絞り染めの柄で何らかの模様(文様)を表現したり、絞り柄が交差するように模様を表現できました。