古い時代における染師の条件。


染色する人を染師と呼んだりしますが、古くはただ染めるだけではなく、染めるための原料を入手するところから、「染師」の仕事がはじまっていました。

原料となる草木が染料に適しているかどうかを見極めるために、「草の精」や「木霊」が宿るかどうかの判断がすごく大事とされていたのです。

少し長い引用になりますが、『日本古代の色彩と染』に染色を学びたい人にとっては一読する価値のある文章がありますので以下、引用します。

色彩の文化的考察には物質的面と精神的面がある。そして古い時代においては、物質に対する観念自体が精神的であったことは、いうまでもないことである。

色をつくりだすという物質に対する技術的操作について、古い時代において人々がそれをきわめて精神的に観念していたことは、今日から言えば、自然崇拝とか自然哲学とか、また自然主義とよんでもよいであろうが、とにかく理解しがたい点が多いのである。

染料の原料である草木に対して、それが染料として適しているか否かを、草の精や木霊(こだま)が宿るかどうかという判断をしたのである、そして精霊の存在を感得し、その識別のできる心霊的能力を具えた者が、はじめて染師となり得たのであった。

染師は山野をかけめぐって染料となる草木の自生する場所をみつけても、採取した植物に霊能が遺存しているか否かをまず検出した。そして霊能が宿ると判断した原料のみを使用したのである。

そこでは霊能をもつ染師が、その感得できる霊能を残存する染木(染草)のみを集めたのであったから、それから染料を作り、生地を浸して染めあげる工程もまた、自然物に宿る霊能を制御することであった。染師の主観からいえば、自然の心に祈ることであった。

山野に自生する植物を採集して、染色工程にしたがって染めあげるという技術の優劣は、古い時代においては染師の精神構造のうちでは、自然の心に祈るという没我的な信仰と観念されていたのである。

きわめて自己中心的なせまい主観と独断であったが、自ら選別した原料のうちに認めた霊能を支配し、その霊能を自由自在に駆使して、見事に染めあげるという司霊者としての誇りが、染師のうち哺(はぐぐ)まれたのであった。

この精神主義的な自我は、いくたびか繰返された高度技術の輸入によっても、決して覆されるものではなかった。半島や大陸の先進的文化においても、程度の差こそあれ自然崇拝はのこされていたからである。

それが特殊な技術に基礎づけられていたが故に、原始信仰の本来の領域で司霊者が職業としてはやく消滅した後においても、染師の技術のうちではなお霊能が生きつづけてきたのである。

それは、人が霊能を媒介として人を支配する社会関係でなく、染師と染材と染色工程を霊的に支配するという技術的領域内部の主観であったから、対社会的には染師としての工人的地位が認められていたのである。

したがってわれわれは遺品のうえでは七世紀初頭までしかさかのぼることができないが、色とその色が示している染色技術は、自然の心に祈るという工人の精神主義によって存在していたのである。

そして技術的な一部の変遷は認めなければならないが、そのような伝統技術は、すくなくとも平安時代半ばまで存続していたのであった。それが、祈りの色としての観念に動揺が生じて、衰退するのは、染師の社会的諸関係の変化によることであった。

染師が原料入手から色染工程までを自らの手でおこなえないような社会的事情の変化が生じたからであった。荘園の発達によって都住いの工人は原料の入手を荘園支配層とそれに結びついた商人によって阻まれたのであった。工人は原料を与えられて色染工程のみに従事する職人に転化し始めたのであった。

自然との連繁をたたれた染師にはもはや霊能は不必要であった。わずかに宮廷その他に残された染師にのみ、過去の祈りの色彩が復原できる伝統として、口伝の形で伝えられたのであった。

しかし、それは単に口伝なり秘伝として継承されたものに過ぎず、染師が色染についてのすべて(つまり草木の採取選別から染めあげまで)を自らの手でおこなうことの社会的基礎は消失していたのである。

おそらく平安末期に出現していたと推測されるが、遺品のうえでは鎌倉時代に顕著となってくる人工美の色彩は、職人の手で作られたものである。それは一般には武家型色彩とよばれているものであり、庶民文化の産物であると結論されようが、その人工美の色彩は室町時代中期頃まで存続したのである。

参考文献:『日本古代の色彩と染』


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