石川県の能登において、能登上布という麻織物が古くから有名で、昭和初期には機屋が120軒、織物業者が原料を出して、一般家庭の子女などに家で織物を織らせる出機が6000台を数え、麻織物生産数全国一位を誇っていました。
能登上布は、能登半島の付け根にあたる部分の石川県鹿西町や鹿島町を中心とした地方で織られていました。
現在、能登上布は、石川県の無形文化財に指定されています。
目次
能登上布(のとじょうふ)とは
この地域の麻織物の歴史は古く、第10代崇神天皇の皇女と皇兄によって、この地の野生の真苧を使って麻布を織った伝えられています。
文献には、平安時代初期の延喜23年(804年)に、桑や麻が不作のため、献納を10分の7に免ぜられたとの記載もあります。
江戸時代初期の元禄年間(1688年〜1704年)に、能登の人が越後(新潟県)へ行き、上布の技法を習得し、能登へ伝えたのが、能登上布の始まりとされるのが一般的です。
当時、能登の麻糸は江州(滋賀県)や越後へ販売されていましたが、麻布の製織技術は劣っていたため、江戸時代後期の文化年間に江州から織工を招いて、技法を習得しています。
江戸時代末期から明治時代においては、能登上布は盛んに織られ、「能登縮」や「阿部屋縮」などと呼ばれ、全国的にその名前が知られるようになりました。
原糸の麻糸は、古くは大麻の手紡ぎ糸とされますが、昭和に入ってからはラミー糸(苧麻)の紡績糸に変わりました。
能登上布の絣染めにおける染色技法
能登上布の特徴としては、品質も堅牢で「男物の白絣は一生もの」といわれるほど優れていました。
能登上布は、絣柄が織り込まれていることで有名で、絣糸の染色方法が4種類使用されていました。
①板締め
板締めは、彫刻された絣板に糸を巻き付け、さらに両面から木板で締め付け、必要なところだけ染まるようにしたものです。
②丸型捺染
丸型捺染は、柔軟性とねばりのある銀杏の木を長いロールにして、柄を彫刻して凹凸を作り、これに染料をつけて糸の上をころがして行う手捺染での技法です。
③型染め捺染
型染め捺染は、模様を彫った型紙を、何百本と平らに並んだ糸の上におき、捺染する方法で、これは越後から取り入れて技法とされます。
④櫛押捺染
櫛押捺染は、櫛型をした木版の先端に染料を付け、平面に何百本と並べられた糸の上に、木版を押すようにして捺染します。
上記の絣は、①、②、④の技法が用いられ、緯総絣は、③④が用いられます。
このうち、④の櫛押捺染は、能登独自の古来からの技法です。
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能登上布の海晒し(うみざらし)
海晒しとは、その名前の通り、海水で布を漂白する作用がありました。
織られた能登上布を漂白するために、海水に布をつける作業が古くは行われていました。
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海水で布を漂白する作業は、「海晒し」と呼ばれ、昭和15年(1940年)まで行われていたという記録があります。
当時、能登上布の海晒しが行われていた羽咋郡志賀町上野付近の海岸から、志賀町安部屋にかけての海岸は、「岩場一帯に雪が降ったように白一色に掩われた」(『志賀町史』)といわれるほど、海晒しが行われていたのです。
能登の海晒しの工程を『志賀町史』従うと、下記のような流れとなります。
- 海岸・岩場の平坦な場所を仕切りで囲って、満潮時に海水を導入できるような洗い場を作る
- 布を1日から1昼夜、洗い場で海水に浸けて糊を落とし、引き上げて乾かす。この工程を4、5日間繰り返す。
- 布を晒井神社の弘法池に運び、池の中に筵を敷いて、その上に置かれた欅製の臼に4反ほど入れ、3人1組になって桐製の杵でつく。(ヌノカチ)
- 布を直径4尺(約120cm)程のサラシ桶に入れて、足で踏みながら、かたわらに湧かしたお湯を手杓で汲んで布にかける。その後、4〜5時間寝かせる。
- 布を海辺の洗い場の海水中に拡げ、空気が入るように布を膨らませて浸けておく(フカシ)。
- フカシ⑤の段階で、よく晒されていない布は、③また行う。
- 池ぬ布を浸けて、十分に洗ってからすすぎ、海岸の所定の岩場で天日に晒す(アイアゲボシ)。
海晒しの仕事は、ほとんどが3月中旬から4月中旬に集中し、大変な作業だったといいます。
戦後は、海晒しの仕事もまったく行われなくなりました。
【参考文献】荒木健也(著)『日本の染織品 歴史から技法まで』