紫色を染める材料としては、古代から紫草が主に使用されてきました。
紫を染める草というので、紫草と書きますが、染色に用いるのはその根で、「紫根」と言います。
紫草(学名 Lithospermum erythrorhizon)は、ムラサキ科の多年草で、日本や中国、朝鮮、ロシアなど広く分布しており、山地や草原に自生しています。
樹高は、30〜60cmほどに成長し、6〜7月に白い花が小さく開き、小粒の琺瑯質の実をつけます。
白い花が群れて咲くことから、「むらさき」の名前があるともいわれています。
奈良時代には、相当自生していたようですが、平安時代に入ると自生種も少なくなり、栽培種の方が多く使われるようになりました。
紫草の赤紫色の根を乾かして保存したものは染料のほか、薬用としても珍重されていました。
根は太く、ヒゲのような細い根っこがあり、地中にまっすぐのびています。
根には、シコニン、アセチルシコニン、イソブチルシコニンなどの色素が含まれています。
目次
染色・草木染めにおける紫根(しこん)
現在、日本で自生する紫草で染色することは不可能に近いですが、中国から輸入される紫草の根っこである紫根を使用することができます。
紫根を使用した染色には、古代から柃や椿などの木灰から作った灰汁が必要不可欠です。
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椿にもアルミナ分が含まれますが、柃の木灰に含まれるアルミナはとくに多く、媒染としての役割を果たしています。
灰汁やアルミニウム塩で媒染すると紫色、温度やアルカリの強度などの染色の条件によって、赤味や青味、場合によっては灰色がかった色合いになります。
紫根の色素であるシコニンが、酸性で赤色、アルカリ性で青紫になる性質によるものです。
紫根の染色方法の一例として、以下のような流れとなります。
媒染(ばいせん)
柃や椿、沢蓋木などの木灰に、熱湯や水を入れてかき混ぜて、灰汁を作ります。
灰汁媒染するので、灰汁10リットルに対して糸1kgを30分ほど浸けてから絞り、天日干しをして乾かします。灰汁に浸けて、天日干しを3回ほど繰り返して干して一旦灰汁媒染は完了です。
灰汁がない場合は、酢酸アルミニウム3パーセントの液に糸を一晩浸けておき、その後しっかりと水洗いします。
染める液の抽出
糸量1kgに対して、紫草の根1kgを使用します。
紫根を入れた容器に熱湯を注いで、臼でひくか手で揉むかして、30分ほど色素を抽出します。
抽出液を麻布や不織布などで濾して染液を取り、使用した根っこに再び熱湯をかけ同様に抽出し、合計3回ほど抽出した液を合わせて、染液にします。
染液を60度に温めて、灰汁で先媒染した糸を浸して、染液が冷えるまでかそのまま一晩浸けて置きます。その後、糸を絞り天日干し乾いたら再度、糸を灰汁媒染します。
3回ほど抽出した紫根を引き続き使用し、4回目から6回目まで抽出液を作り、初回と同様に染めて天日干しします。
その後は、7回目から9回目までの抽出液を作り、染色→天日干しをします。
濃く染める場合は、同じ工程を繰り返して重ね染めしていきます。
紫草(むらさき)の薬用効果
紫(根)は、漢方薬として重用され、中国大陸では古くから局所的に作用して炎症を治す消炎薬として用いられ、明代(1368年〜1644年)の医学書にも登場しています。
根を煎じて飲むと解毒や解熱、利尿作用などがあるとされています。
日本では江戸時代に外科医の華岡青洲が「紫雲膏」を作り、消炎、鎮痛、止血、殺菌、湿疹や火傷などの外用薬として、現在でも販売されています。
江戸時代の薬種問屋では、色素の多いものは染色用にし、色素が少ない、または黒い紫根は医療用にと分けていたことが文献に出てくるようです。
紫草(むらさき)の歴史
紫草は、「正倉院文書」にも記載があり、奈良時代には栽培されていたことあると考えられています。
『万葉集』には、紫草を詠んだ歌が10首あります。
額田王が詠んだ、「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」というよく知られている歌もあります。
「あかねさす」は「紫」の枕詞で、紫野は染料をとるために紫草を栽培した野のことです。
紫色は、その希少性から世界中のさまざまな場所で、高貴な色・尊い色に位置付けられていました。
地中海沿岸では貝紫による紫の染色があり、その希少性から王侯貴族を象徴する色とされて、ギリシャやローマへと受け継がれました。
貝紫(Royal purple)は、アクキガイ科に属した巻貝のパープル腺と呼ばれる分泌腺からとれる染料で、西洋では珍重されていました。
中国では、戦国時代頃から紫色は覇者の色とされており、前漢の時代(紀元前206年〜8年)には皇帝が使用する色として、他の者の使用は禁じられていました。
日本においては、朝廷に仕える家臣を12の等級に分け、地位を表す色別に分けた冠を授ける制度(冠位十二階)において、最高の地位を表すのが紫色でした。
冠位十二階は、推古天皇11年(603年)に日本で制定され648年まで行われた冠位制度です。
親王や一位の衣である「深紫」を染めるには、紫草三十斤が必要とされ、紫草の使用料が減るにつれて、紫の濃度と鮮やかさが弱くなっていきます。
関連記事:紫根で染められた日本古代の色彩である紫色。深紫・深紫・中紫・紫・黒紫・深滅紫・中滅紫について
平安時代にまとめられた三代格式の一つである、『延喜式』には、染められた織物の色彩名と、染色に用いられた染料植物が詳しく書き残されていますが、そこにも紫草の記載があります。
『延喜式』の「縫殿寮」には、「深紫綾一疋⋯⋯紫草卅斤。酢二升。灰二石。浅紫綾一疋⋯⋯紫草五斤。酢二升。灰五斗。⋯⋯深滅紫綾一疋。紫草八斤。酢一升。灰一石。⋯⋯中滅紫綾一疋。紫草八斤。酢八石。灰八斗。浅滅紫糸一絇。紫草一斤。灰一升⋯⋯」などとあります。
深紫は、濃い紫色ですが酢二升にたいして灰二石との記載が本当だとすると、非常に黒味の多い紫色であったと考えられます。
一方、浅紫は、赤味の多い明るい紫色だったと思われます。
『延喜式』の「弾正台」には、「凡深浅純紫裙者。庶女以上通著聴」とあり、この純紫は、鈍紫と考えられるため、滅紫と同じ意味と考えられます。
上記の記載では、灰黒味の紫色(鈍紫)は、庶女でも着ることができた服色であったことがわかります。
滅紫は、「正倉院文書」のなかに、「滅紫紙」の記載があります。
紫草は、畑で栽培するのが難しく大変希少で、紅花を使用する紅染と同様に濃色に染めるためには何度も染め重ねる必要があり、技術的にも難しかったことが理由として挙げられます。
紫草を使用しないで紫色を染めるために、平安時代には、藍と紅花で染色を活用することもあり、それらの色は二藍や桔楩色などといわれていました。
紅色はあでやかで華やかなイメージがあるのに対し、紫色は優雅で気品があり、奥ゆかしさや情緒のある色として耽美的な感性(美を最高の価値として、美に陶酔する傾向のあるさま)をもつ平安貴族に好まれたのです。
江戸時代になると蘇芳(学名 Caesalpinia sappan L.)による紫色が多くなり、単に紫や似紫と呼ばれています。
それまでは、禁色とされていた紫染が一般に普及し始めます。
紫染は主に京都で行われていましたが、徳川吉宗(1684~1751)の奨励なども相まって、紫草の栽培や染色が江戸でも行われるようになったといわれています。
京都の「京紫」に対して、江戸で行われた紫染は「江戸紫」と呼ばれました。
京紫が伝統的な紫染を受け継いだ少し赤みがかった紫色であるのに対し、「江戸紫」は青みを帯びており、「粋」な色として親しまれました。
歌舞伎十八番の「助六由縁江戸桜」に登場する主人公の助六は、江戸紫のハチマキをしめています。
江戸末期から明治にかけてロッグウッドが輸入されるようになってからは、主にロッグウッドが紫色の染めに使用されるようになりました。
関連記事:染色・草木染めにおけるロッグウッド。世界最大の需要を誇った染料、ロッグウッドの普及と衰退の歴史
その他、紫系の色を染める際には、五倍子や矢車附子などが活用されました。
五倍子や矢車附子は、採取してからすぐに染めると紫色と言ってもいいような色合いになります。
紫のもつ高貴なイメージは、現代にも引き継がれている事例もあり、例えば高僧(位の高い僧)のみに許される紫衣の色や、袱紗(冠婚葬祭において、ご祝儀や香典などを包む四角い布)で最も一般的な色が紫です。
紫草(むらさき)の産地
『延喜式』には、紫草の特産地の記載があり、武蔵国(現在の東京都、埼玉県のほとんどの地域や神奈川県の一部)、相模国(現在の神奈川県)、下総国しもうさのくに(現在の千葉県北部にあたり)、上野国(現在の群馬県)などが挙げられています。
優良品として知られたのが、岩手県で栽培された「南部紫」です。
盛岡藩の保護奨励を受け、品質は全国一とされ、紫根は、重要な換金作物として、藩の厳しい管理下のもと、江戸や京都、大阪などにおいて高値で取引されていたのです。
「南部紫」は、盛岡藩の領内北部や現在の秋田県鹿角地方(盛岡藩の飛地)などを主産地として、紫染も行われていました。
紫染の媒染剤にもなる、サワフタギ(錦織)が自生していたためとも言われています。
茜染めや紫根染などを染める時の媒染剤として、サワフタギの焼いた灰が用いられていたのです。
岩手県内では、紫根の栽培における歴史もあり、現在でも紫根染が行われています。
【参考文献】
- 『日本の色彩 藍・紅・紫』
- 『月刊染織α1984年2月No.35』